「・・・一度逃げておいて、いまさらおれと別れたいと言ってきたのは何故なんだ?
おれと別れてあいつと籍を入れたい、とおもうようになったのか?」
妻は静かに首を振りました。
「ちがいます・・・・彼はわたしと籍を入れる気はないと言っています」
「それじゃあ、何故」
「あなたが誰か他の人と、あたらしく幸せになる機会があるかもしれない、
でも、わたしと別れないかぎり、再婚できない・・・ずっとそうおもって悩んでました。
一度あなたにお目にかかってちゃんと話したいとおもっていたけれども、
勇気がなくて・・・決心が着いたのは本当に最近です」
そのときのわたしの気持ちはとても表現しきれません。
苛立ち、憎しみ、哀しみ。
それらすべてが混ぜ合わされた妻へのおもいで壊れそうでした。
「おれのことはいい。
それよりも勇次はお前と籍を入れる気はないと言ってるんだろ?
その一事だけでも奴がお前のことをどうおもっているか、自明じゃないか・・!
このままの生活を続けていったら・・・お前・・・どうして・・・どうして」
(どうして、それが分からないんだ・・・!!)
わたしの血を吐くようなおもいは、言葉になりませんでした。
「分かってます・・・でも、もう駄目なんです」
しかし、妻は言いました。
「何が駄目なんだ・・・」
「子供が・・・・」
おかしなことに、わたしはそのときの妻の言葉が、咄嗟に分かりませんでした。
しばらく阿呆のように妻を見つめていて、その腹に添えられた両手を見て初めてその意味に気づきました。
「子供・・・・」
わたしは呆然として呟きました。
すべての思考は止まっていました。
「もうどうしようもないんです・・・だから、わたしと別れてください・・・お願いします———お願いします」
必死でそう言う妻の言葉も、耳に入っていませんでした。
わたしは死体のように、ただそこへ座っているだけでした。
***
・・・それからしばらくの間、数回にわたって妻と会い、離婚へ向けての話し合いを進めました。
娘の親権はわたしが持つことになりました。
慰謝料を求めて裁判を起こすことも出来たでしょう。
しかしそうなると、また裁判のために店を空けなければなりません。
娘のこともあります。
何より、私自身にそうするだけの気力はかけらも残っていませんでした。
離婚届を妻とふたりで提出した日のことです。
ふたりとも沈黙したままで、役所を出ると勇次が妻を待っていました。
妻はわたしをちらりと見ました。
わたしがうなづくと、ゆっくりと勇次へ近づいていきました。
「終わった?」
「はい」
「じゃあ、行こうぜ」
勇次の腕が妻の肩にかかるのが見えました。
その瞬間、わたしはわけの分からない感情の爆発で我を忘れました。
気がつくと、勇次を殴っていました。
不意打ちということもあったのでしょうが、わたしが勇次に殴りかかって成功したのは、過去三度の中で初めてでした。
勇次はわたしに張り飛ばされて、ふらつきながら毒づくと、わたしに殴りかかろうとして、その手を止めました。
わたしがわらっていたからです。
何故あのときわらったのかは、自分でもわかりません。
わたしはただただ狂ったように、涙を流しながらケタケタと泣きわらっていました。
勇次はそんなわたしを気味悪そうに見ると、妻を促して車へ乗り込みました。
妻は、わたしをじっと見つめていました。
どんな表情をしていたかは思い出せません。
ただ、わたしをじっと見ていたことだけ記憶にあります。
やがて、車は去っていきました。
あれから七年がたちました。
妻とはあの日以来、会っていません。
どこにいるか、何をしているかも知りません。
あれからしばらくして、一度だけ、勇次から封筒が届きました。
中には写真が入っていて、妊娠中でおそらく臨月間近だとおもわれる妻の卑猥な写真が入っていました。
おそらく最後に殴られたことへの腹いせで、そんなものを送ってきたのではないかとおもいます。
その写真については、もう触れたくありません。
数年前、妻に—もう妻ではありませんが—よく似た女が働いていたという店に行ったことがあります。
かなりいかがわしい店で、入るのも躊躇われたのですが、ともかくもわたしが見たかぎりでは、それらしい女はいませんでした。
妻は今年で45歳になるはずです。
わたしはまだ店を続けています。
世間の目もありますし、何より、妻や勇次の面影がちらつく町から去りたいという気持ちもあったのですが・・・。
未練がましいとおもわれるかもしれませんが、わたしはまだいつか、妻がふらりとわたしたちの店へ戻ってきてくれるかもしれないという気持ちを捨てきれないのです。