へとへとになって上がると、彼女はもう服を着ていた。
Tさんのと比べられたら困ると思って、おれは急いでパンツを探した。
暗くてよく表情はわからなかったが、
なんとなく彼女がにやにや笑っているような気がした。
オンナは強い、オンナは怖い、漠とした意識のうちでそんなことを思った。
なぜか彼女にはぜったい、この先かなわないだろうと予感した。
そして彼女はかならずこの失恋から立ち直る、
いや、もう吹っ切れているのかもしれない。
花火が一発だけでは終わらないように。
厨房のおれはそんなことを格好つけて彼女に言ってみた。
今から考えると赤面ものだが、花火とキミがどうのこうのと(w
彼女は最初おれが何を言っているのかわからなかったが、
なんとか説明すると「似合わないー」と大笑いされた。
そのあと、「ありがとう」という小声を聞いたのははたして夢か現実か。
眠る直前、Tさんのことを考えた。
つぎTさんに会ったら、どんな顔をすればいいのだろうか。
結局、誰が悪いのだろうか。
おれはTさんとどう接すればいいのだろうか。
さんの顔を正面から見れなかった。この人と彼女がセックスをしたのだ。
そう思うと、Tさんや彼女がおれなんかとは何光年もはなれた遠い存在に
感じられるのはなぜだろうか。セックスって何だろう。
文学で描かれるセックスしかおれは知らなかった。
美しいものとして描く文学者もいれば、ことさら露悪的に書きなぐるものもいる。
両親がセックスして自分が生まれた。それはわかる。
しかし両親がセックスしている様は想像できない。
では、彼女とTさんがセックスしているすがたは?とおれは目の前のTさんを見る。
Tさんのたくましい裸体をイメージする。
このまえ盗み見た彼女のすんなりと細い身体を思い浮かべる。
このふたりがベットの上に置いてみると、やりきれない切なさが胸をしめつけた。
頭の中でからみあう二人。あまりにも細身の彼女が痛々しかった。
Tさんが悪い、とおれは決めた。いくらTさんだって、
やって良いことと悪いことがある。彼女があんまりにもかわいそうだ。
その日の勉強が終了して、帰ろうとしているTさんをおれは呼びとめた。
「話があります」 Tさんは何のことだかわかったようだった。
無言のまま並んで歩いた。
おれは自分が何をしたいのかまだわかっていなかった。
公園についた。薄暗かった。電灯のそばのベンチに腰をおろした。
この男が憎たらしい、彼女はこの男にもてあそばれたのだ。
でもTさんのまえにでるとその威圧感というのだろうか。
辛酸をなめてきた人間の生命力のまえに言葉がうまく出てこない。
「ぼくは君に常在戦場という言葉を教えたよな。
男はいつも戦場にいるつもりぐらいがちょうどいいという意味だ。
言いたいことがあったら正々堂々と言うのが男。
それを真正面から受けとめるのも男だとぼくは思う」
おれは口を開いた。するとTさんを非難する言葉が次から次へと流れ出てくる。
なぜ婚約者までいるのに彼女に手を出したのか。
まだ未熟な少女を誘惑して肉体を奪ってよいものなのか。
Tさんのやっていることは、ヤリ捨てではないのか。
ちゃんと責任をとるのが男というものでは?
さんは一言も口をはさまないで、おれに胸のうちを吐き出させた。
そして「君の言いぶんは正しい。それで、いったい何がしたいんだ?」
と静かに言った。
「Tさんを殴りたいんです」
そう、確かに「です・ます」調で殴りたいとおれ言ったよ(w
「いいよ」とTさんが答えるや、一発、二発、三発とコブシを頬に叩きつけた。
平然と受けきるTさんは何を考えていたのだろう、と今思う。
満足したか、とTさんはつぶやくと、真正面からおれの目を見た。
——君は正しい、ぼくはさっきそう言ったよね。確かに君は正しいのだろう。
だれに聞いても君を支持するだろうね。しかしぼくは正しい・正しくない
という一般的な価値基準では生きていない。
彼女のことだってそうだ。彼女はかわいい。君もそれは認めるよね。
そんな彼女に好きと言われたら、それはぼくだって嬉しい。
婚約者がいると説明したが、それでもいいと彼女は言う。
それに君は勘違いしているようだが、誘惑してきたのは彼女のほうからだよ。
ぼくも驚いた。こんなにまだ幼いうちから、そんなことができるのかと。
どうして彼女を抱いちゃいけない理由がある?
それに彼女は処女じゃないと言った。やってみたら処女だったけど、
こういうのは途中でやめられるもんじゃない。
酷なことを言うようだが、ぼくには君の意見がただのヒガミにしか聞こえない。
彼女のことが好きなら、なぜ自分でつかみとろうとしない?
君を見ていて思ったのは、まったくの甘ちゃんだということ。
世の中が隅の隅まで弱肉強食で成立していることが、からっきしわかっていない。
勉強の仕方だってそうだ。ぼくは参考書を買う金にさえ困っていたよ。
だから教科書のこまかいところまで何度も目を通した。
でもぼくは東大に落ちた。もし予備校に行けていたら、と今でも考える。
世界は不平等にできている。それを認めるのが生きるということだ。
そこから少しでも、のしあがろうとするのがぼくの生きる意味でもある。
ぼくは政治家の娘と結婚する。母には悪いが、養子に入る。
いつかかならずぼくも政治の世界に加わってやるつもりだ。
そして少しでも社会的な不平等をなくすために尽力するよ。
いくら底辺で騒いだところで、決して何も変わらないからね。
だいたいこんなようなことをTさんは言った。
あるいはもっと深いことを話していたのかもしれない。けれどもおれが理解できたのはこのぐらいである。
きついパンチだった。おれが殴ったのを数百倍にして返された思いだった。精神的なパンチ。自分の未熟さが恥ずかしかったよ。
彼女がおれではなくTさんに惚れるのがよくわかった。
「今日の君は実にいい目をしている。こんなことになったら
たぶん今日で家庭教師も終わりだろうけど」そう言うとTさんはにやりと笑った。
「ぼくが君に教えたかったのは受験のテクニックや勉強法などではない。
常在戦場の精神。もしぼくのような未熟な男が君に何かを教えられるとしたら、
このことしかない。受験の知識などすぐに忘れてしまえ。
でも常在戦場は忘れるなよ。男なら逃げないで闘え」Tさんは握手をするような感じで手をだした。
ぼくも手をだそうとすると、その平手がぼくの頬を打った。
じいんとした耳に、一発ぐらいお返ししてもいいだろ、
というTさんの声が聞こえた。たしかに痛かった。大人になる痛みだった。
別れぎわ、もう会うことはないと思うと何かお礼の言葉を言いたかった。
決めゼリフみたいな。だが、そこはおれの厨房精神が邪魔をするのよ(w
自分でもどうしてこんなことを聞いたのかわからない。
「なんで彼女のあそこの毛を剃ったりしたんですか」
Tさんはきょとんとした顔をしている。意味がわかると、
「見たのか?」ニタァと実にいやらしそうに笑う。
「いやあ、ちょっとやりすぎたかな」と豪快に笑うTさんを見ていると、
バカ負けしたというか、この人にはかなわない、
ほんとはケダモノなんじゃないかと思えてきた。
同時に、そんなところこそがTさんの愛すべき長所のような気もして、
「やりすぎですよ」といつのまにかおれも笑っていた。
夏休みが終わった。
あの一夜のことは、どちらも酔っていて覚えていないことにする、
そんな暗黙の了解のようなものがおれと彼女のあいだに成立した。
受験も近づき、恋愛どころではないというクラスの雰囲気に呑まれて、
おれと彼女も疎遠になっていった。
いつだったか、彼女がおれをじっと見つめてきたことがあった。
たしか理科の居残り実験で二人きりになったときだった。
なにか用?とたずねると、「○○、なんか変わったね」。
どこがとたずねると、全体的にとのこと。「なんか男らしくなったよ」
「最近、女子のあいだでちょっとした噂になってるんだよ、○○のこと」
「でも、おれは今でも……」と彼女を見ると、
さあ、実験、実験とはぐらかされた。
翌春、おれと彼女はそろってトップの県立高校に入学した。
合格発表の日、おれと彼女ははじめてキスをした。
ひっぱたかれるかと内心おびえていたが、意外にすんなりとうまくいった。
このあとの話はとりたてて、ここに書くことはないように思う。
ふつうの高校生カップル。喧嘩もすればキスもする。
しかし二人のあいだではTさんのことは長いことタブーになっていた。
おれの人生ににとってTさんはもっとも強い影響を与えた人であり、
おそらく彼女にとってもそうであるはずなのだが……。