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変身
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私の胸に不安がよぎります。
ビデオの男がなんらかの理由で春日のふりをして、妻がそれに調子を合わせたということも有り得ます。
いずれにしても電話では声質もよく分かりません。
私はここはあえて慎重に下手に出ることにしました。


「実は家内のことでご相談したいことが有ります。
お忙しいところ申し訳ございませんが、少しお時間をいただけないでしょうか」


「ああ、ああ、もちろん良いですよ。いつがよろしいですか」


春日は声に余裕が有るようです。
私の不安が膨らみますが、思い切って切り出します。


「実は今、銀行のすぐ近くまで来ています」
「えっ?」


一瞬、春日の声音が変わったようです。


「向かいのビルの地下に、モナコという喫茶店があるのをご存じですか」
「……知ってます」


「そこで待っていますので、ご足労ください」
「今からですか?」


春日の声にためらいが見られます。
「さほどお時間は取らせません。お願いします。それでは」


私はそう言って電話を切ります。


男と春日が別人だった場合、私の行為はやや奇異なものと見られかねませんが、
仮にそうであったとしても男は妻の職場の人間であることはほぼ間違いないと感じています。
春日から男についての情報を得ることは可能でしょう。


私はモナコという喫茶店に入り、店の奥の方に席を取り、珈琲を注文して春日を待ちます。
やがて落ち着かない風情で春日が現れました。
黒縁の眼鏡をかけ、額がやや上がった腹の出た中年男、間違いなくビデオの男でした。


私は春日に向かって手を上げます。
春日はきょろきょろしながら私の方に近づき、深々と頭を下げました。


「どうも、春日です。奥様にはいつもお世話になっております」
「いえ、お世話になっているのは、むしろ家内の方でしょう」


私は込み上げる怒りを必死で抑えてそういいます。
春日は皮肉を言われているのを感じたようですが、
何も言い返せなくて口をパクパクさせています。


「お座りください」


私が声をかけるとようやく春日は席に着きました。
春日が何かしゃべろうとした途端、ウェイトレスが私に珈琲を持って来ました。


「ご注文は」
「あ、こ、珈琲を」


春日は明らかに平静を失っています。
ウェイトレスが去ったところで私は春日に切り出しました。


「春日さん、あなたは私の妻をどうするつもりですか?」
「えっ」


「ビデオと写真はすべて見させていただきました」
私の言葉に春日は見る見る青ざめ、いきなりテーブルに手を着いて頭を下げます。


「す、すんませんっ!」


私は春日の行為にあっけにとられます。
珈琲を持って来たウェイトレスが目を丸くして私達を見ています。


「わ、私と奥さんのやったことは、法律的は不貞、不法行為です。それについては償わせていただきます」
「償い?」


私は春日の言葉を聞きとがめます。


「償いとはなんですか」
「ですから……十分な慰謝料を……」


「いきなり金の話ですか。さすがに銀行は稼ぎが良いのですね」
私は春日を突き放します。


「償いはむろんしてもらいますが、私は妻をどうするつもりなのかを聞いているのです」
「どうするとは……」


「あなたは妻と一緒になりたいのですか?」
「とんでもありません」


男は慌ててかぶりを振ります。
「そんなつもりは毛頭ありません。紀美子さんは○○さんの妻です」
「すると、あなたは妻を遊びで抱いたのですか?」


私の声が少し大きくなったようで、周りの客数人が怪訝そうな表情をこちらに向けます。


「どんなつもりであったにせよ。責任は取ってもらいます。私はもう妻とは離婚するつもりです」
「離婚……」


春日は目を丸くします。


「それはいけません。離婚はいけません」


「なぜですか? あんなことをした妻とはもう一緒にはやっていけない。
妻もビデオの中であなたの妻としてやっていきたいと言っていたではないですか」


「あれは違うんです」
「どこが違うんだ」


さすがに私は怒りをこらえ切れず、言葉が荒くなります。


「それにあんたが始めに言った、法律的には不貞とはどういう意味だ。
法律的には不法だが心情的には正しい、純粋な愛だとでもいいたいのか」


「○○さん、勘弁してください。この店は銀行の人間も出入りします」


店中の視線が私達に集まっています。
私はさすがに少し興奮が冷め、席に座り直します。


「今日、昼休みにかけて外出の時間をとって、○○さんのお宅にお邪魔します。その時にきちんとお話させてください」
「わかった……」


私もここでこれ以上の話は無理と見て承諾しました。
とにかく少なくとも春日がはっきりと妻との不貞行為を認めたのですし、
銀行員という社会的立場上逃げ隠れはしないでしょう。
私はいったん鉾を収め、家に帰って春日を待つことにしました。


春日に対する先制攻撃はなんとか成し遂げたのですが、
もう一人かたをつけなければならない相手がいます。
そう、妻の紀美子です。



***



家に帰った私は、留守電が入っていることに気づきました。
確認すると妻からです。
お話したいことがあるのですぐに携帯に連絡してほしいとのことでした。
時間を確認すると、ちょうど私が春日と別れた10分ほど後です。


私と話をしたければ、携帯に電話をすればすむことです。
妻は、私が家にいないことを知りながら、
あえて家の電話にかけて来たということは、
私とすぐに話すのを避けたかったからでしょうか。


私は、妻の希望をわざと無視して、実家の電話にかけます。
病に倒れている義父やその看病で疲れている義母を巻き込みたくはなかったのですが、
妻にも私が味わった嫌な気持ちの何分の一でも体験させなければ気が済みません。
何度かのコールの後、受話器を取ったのは妻でした。


「はい、△△(妻の実家の姓)です」
「俺だ」
「あなた……」


電話の向こうで妻が息を呑む様子が見えるようです。


「すみません、こちらからすぐにかけ直します」
「この電話では話せないことか」
「すみません……近くに父と母が……お願いです」
妻は受話器に口を近づけ、小声で哀願するように話します。


「お義父さんやお義母さんにも聞いてもらったらどうだ」
「それは……」


妻が、切羽詰まったような声を出します。
私も本音では夫婦間のゴタゴタに病に倒れている義父まで巻き込みたくはありません。
41歳にもなる娘の育て方について、いまさらその親に苦情を言ってもしょうがないことも分かっています。


「わかった。今家には俺しかいない」
「すみません、すぐにかけます」


私が受話器を置いてから3分程しかしないうちに、電話がなりました。


「紀美子です……」


私は、妻の声を不思議なほど遠くに感じました。
それは遠い実家からかけているということだけでなく、気持ちの上の距離感だったと思います。


「話したいことって、なんだ」
「あの……」


妻は口ごもります。


「春日さんと話されたんでしょう」
「奴から連絡があったのか」
「はい……」


「いつも連絡を取り合っているんだな」
「違います」
「まあいい、おまえの話を聞こう」
私は妻を促します。


「ビデオと写真をご覧になったんですね」
「それは俺が春日に言ったことだ。夫以上に信頼している人間の言葉をわざわざ俺に確認しなくても良いだろう」
「それは違います。私があなた以上に信頼している人はいません」


私は、本当は「信頼している」というより「愛している」と言いたかったのですが抑えました。
そう言って妻に否定されないことを無意識のうちに恐れていたのかも知れません。


「まあいい、それよりもさっきから質問ばかりだな。紀美子が話があるというからかけたんだ。その話を聞こうじゃないか」
「それは……やっぱり電話で話しにくいです」
「それなら俺から話すことはないから、これで終わりだ。
離婚届を送って置くから署名捺印して返せ。
後は弁護士を通す。おまえはもうここに帰ってくる必要はない。
お義父さんの看病も必要だし、ちょうど良い。ずっと実家にいろ」


「そんな……離婚なんて言わないでください。あなたが考えているような関係ではないんです」
「俺は何も自分の考えを付け加えていない。お前たちの嫌らしいビデオと写真から判断しただけだ」
「待ってください、私の話を聞いてください。水曜日には家に帰ります」
「水曜日……今日中に離婚届を速達で送るから水曜日にはそちらに着く。お前はそこで待って受け取れば良い」


私は、一気にそこまで話すと電話を切りました。
その後何度も電話が鳴りましたが、私は出ませんでした。
そうこうしている間に玄関のチャイムが鳴りました。
ドアを開けたらそこには緊張した面持ちの春日が立っていました。


「ご主人、申し訳ありません!」


春日は、玄関に入るや否やそう叫ぶように言って、その場に土下座しました。
私は、しばらくあっけにとられて春日の様子を眺めていました。


「入れ」
「はい」


私は、春日を応接間に通しましたが、春日はソファには座らず、床の上に直接正座しています。
私は、それを見てふと、春日は以前にもこのような修羅場を経験しているのではないかと感じました。


「あんたとももちろんだが、あんたの奥さんと話がしたい。出来ればこの場に呼べ。あんたの奥さんも被害者だからな」
「……ご主人、私には妻はいません」
「何?」


春日は、私より少し年上の40台半ばといったところのようです。
今時その年で独身の男は珍しくありませんが、銀行という保守的な業種で管理職の地位にある人間が独身だというのはやや意外な感じがしました。


しかし、これで春日の家庭も壊してやろうという私の願望は潰えたことになります。
私は苛々してきました。


「独身か。ならちょうど良いじゃないか。俺は妻と別れるつもりだから一緒になれるぞ。
ただし、2人ともそれなりの代償を払ってもらうつもりだがな」


私はそう言いながらも、妻からはともかく、春日に慰謝料以外にどのような代償を払わせるのか考えていました。
社内不倫ということで銀行の人事部から処罰させることが出来るでしょうか。


「ご主人、私は奥さんと一緒になる気はまったくありません。別れるなんておっしゃらないでください」



春日は、額を床に擦り付けるようにして哀願します。



>>次のページへ続く




 

 

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