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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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16 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU(主)
>>13
武将で中華料理食べたくなるとはなかなかの豪傑よ。



14 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:46:33 ID:IFD
この人も白眉だったん?


16 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU(主)
>>14
老将だから白くしただけじゃないかな。

ヒゲともみあげは白くないけど、これは手抜きでしょw



18 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:49:34 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lhW5zpH.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_255

黄忠漢升

熱血プッツンおじいちゃん。

いつも周りに年寄りとバカにされて「まだ老いぼれちゃいない」と発奮して戦う。

しかしそれは皆が黄忠を良いように使う為の方便だ!

騙されちゃだめだおじいちゃん!

突撃なんかしちゃだめだ、得意の弓で戦うんだ!

定軍山で夏侯淵の首取ったのはそりゃあすごいけど、あ、ほら、言わんこっちゃない。

夷陵にて老衰。いや戦死。

ていうか皆おじいちゃんをいいように扱いすぎ、特に諸葛亮、お前はダメだ。

KEIROU精神をもっと持とうYO!



19 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:52:52 ID:IFD
若い頃は何してたん?



22 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU(主)
>>19
若い頃は劉表のところにいたみたい。

その頃から名声はあったみたいだけど、何したかは伝わってない。残念。



20 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:53:28 ID:Ehe
黄忠適当すぎひでぇw

晩年の張飛は何だろうなアレ

学習したってより入れ知恵なんじゃなかろーか


22 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU(主)
>>20
なんかウィキれば分かることをわざわざ書くのも何だなと思ってさ。

張飛の何だったんだろうな。

諸葛亮や龐統らの影響が張飛ら脳筋にもあったってことなのかな?



21 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:58:02 ID:HXU(主)
http://imgur.com/XduRDmf.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_511

龐統士元

三国志界でも名うての不細工。

実は諸葛亮と比肩するほどの頭脳の持ち主なのだが、持ち前の顔のせいで誰からも相手にされず・・・

劉備ですら彼を最初は見誤った。そんなに頭悪そうな顔していたのか。

そんな彼を別陣営から気にかけてた魯粛はさすがである。三国一の良心である。

とても他人とは思えない龐統だが政治に長ける諸葛亮とは反対に軍事に長ける。

入蜀戦でも劉備は諸葛亮ではなく彼を連れて行っている。

その用兵は、迅速であり尚且つ着実である。

発想の優先順位は戦略>政略>戦術であるが、政治的配慮を劉備が行う余地を与えた選択肢を常に用意しているという優秀っぷり。

張魯などの周辺状況をフルに優位になるように利用した戦略を立て、劉璋をソッコーでフルボッコ。

しかし最後まで幸薄い彼は入蜀を前にして劉備の厄を引き受け死んでしまう。

ああ、龐統が生きていたら全然違う結果になったであろうに・・・惜しい人をなくしたものだ。



23 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:03:20 ID:Ehe
諸葛亮もホウ統、同じところで勉強してたんとちゃうん?

ホウ統は何で戦略戦術を諸葛亮に教えてやらんかったんか疑問だなぁ


25 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:05:45 ID:HXU(主)
>>23
そうそう、小説では徐庶も水鏡先生のところで同門って事になってるね。

諸葛亮も知識では戦略戦術を知ってたと思うよ。

ただ実践できる才能が微妙だっただけじゃないかな。

教えられて誰でも実践できるのなら、高等教育受けた歴代の皇帝とかは皆用兵達者になるよね。

同じ頭脳明晰でも、諸葛亮は行政官向き、龐統は軍事向きだったんでしょう。



30 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:09:37 ID:Ehe
>>25
なるほどなぁ

勉強したであろうのに馬謖みたいなんも居るし、うまく扱えるかどうかは様々よなぁ〜


34 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:28:06 ID:HXU(主)
>>30
逆に無学でも天才的な用兵家はたくさんいたし、天性の才能の影響が大きいのかもね。



24 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:04:29 ID:IFD
なんか髭が画一的なんだが後の時代の人が後付けしたん?



27 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:34 ID:HXU(主)
>>24
武侯祠自体は唐の時代からできはじめらしいけど、時代時代に回収と拡張工事を受けてるから、今あるのは清朝の物がベースだと思う。



26 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:06:31 ID:wts
劉備の大耳がちゃんと再現されてるな


28 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:07:02 ID:HXU(主)
>>26
手ももっと長くするべきだった!



29 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:08:16 ID:wts
成都行ったん?


33 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:19 ID:HXU(主)
>>29
4年住んでた。



32 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:27:01 ID:HXU(主)
http://imgur.com/IYT8ZMw.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_1023

馬超孟起

馬延の子孫と称する荒武者。

涼州で反乱と帰順というマッチポンプを繰り返していた馬騰の息子。

父親は弱った中央政府に独立をちらつかせて栄達した食えない奴だったが、その息子の馬超は本気で独立できると思ってしまったらしい。

更に曹操が漢中を狙って兵を動かしたのを、やましいところがある馬超は自分を討ちに来たと勘違い。

父と弟が中央にいるのに韓遂を誘って突如反乱!(当然父と弟は処刑される)

周辺の異民族には慕われていたため反乱に呼応する者も多く、一時は曹操を追い詰めるまでに至った。

しかし頭が足りない馬超は韓遂との仲を離間され、反乱はあえなく衰亡。

のこのこと兵をまとめて引き返してその後は潜伏。

それでも懲りない馬超は数年後に再起してまたまた反乱。

しかし楊阜らのガチの抵抗にあって、これはほとんど上手く行かずに張魯の元へ亡命。

その後、劉備の元へ流れ着き、最後は成都の劉璋をビビらせて終わり。

その後はフェードアウトで死亡。

一体馬超とは何だったのか?



35 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:31:58 ID:IFD
趙括とかいって超負けた奴も昔いたしね


37 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:37:52 ID:HXU(主)
>>35
そういう言葉遊びを聞くと、


彼女がオレのボウガチョウをころころと弄ぶと、オレのバチョウした

テツリキツがむくむくと大きくなる。ゴツトツコツ!といわんばかりに屹立した

オレのカコウボウはまさしくテイホウと呼ぶに相応しい。

彼女の舌がチョウギョクにゲンハクコと絡みつく。

そろそろか。

オレは立ち上がると彼女のジュンユウなマンチョウにチントウをソウショクする。

ガクシン、ギエン、ガクシン、ギエンとリズミカルに腰をふる。

彼女のホシツしたジュンウケイがカコウオンを奏で始める。

「シャ、シャマカになっちゃう!アカイナン!アカイナン!テイイク、テイイク、コウソンサァーーーンッッッ!!」

彼女はひときわ大きな声をあげる。そしてオレのチンブからはトウトヌとエキトクが迸り、ぐにゃりとロシュクする。


このコピペを思い出す。




>>次のページへ続く
 
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