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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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69 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD

関羽さんは関帝廟で別枠?


70 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU(主)
>>69
関帝廟???

中国全土の関帝廟やってたらそれだけで1000レス行きそうwww

あれ?そういえば何で関羽ないんだろう?

画像見逃してたかな???



72 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lucSG4p.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_34359738367

http://imgur.com/fWtHAjK.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_68719476735

全国の関羽ファンの皆様大変申し訳ありませんでした。




72 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU(主)
関羽を見逃していて、しかも>>69大人に指摘されるまで気が付きませんでした。

すいません。

というわけで、


関羽雲長

ヒゲがやたら長い劉備の義弟。

そして顔が常に赤黒い。多分傍から見たらかなり怪しい人。

赤い物体からやたら長い毛が生えていたら、銅鑼をジャーンジャーンジャーンと鳴らして、声を合わせて

「げぇ、関羽!」

と叫ぼう。

閑話休題。

彼は義の人である。

曹操に下った時も忠犬ハチ公よろしく劉備への義を貫いた。

そして独尊の人でもあった。

プライドがビンビンに高く、劉備以外に傅くのを良しとしない人。

武勇と用兵もかなりのもので、魏の名だたる武将を何度も退けている。

曹操が惚れ込むのも無理は無い。

少なくとも張遼と同程度には評価されていると見て間違いない。

その見込は正しく、荊州では大活躍。

ようやくまともな兵力と武装を手に入れた関羽にもはや敵なし状態だった。

関羽が居る限り、魏は荊州を取り戻せなかっただろう。

趣味としては、春秋左氏伝が大好きで片時も手放さない。でもその割には政治や外交がど下手・・・

彼は春秋左氏伝から一体何を学んだんだろうか?

少なとも行政や外交は学んでなさそうだ。



最後はそのプライドと外交力の無さが仇となって呉の計略にはまりあえない最期を遂げる。

曹操軍はあくまでベースが王道で、味付け程度に計略があった。

だから関羽と魏軍が戦う時は、両将のプライドのぶつかり合いであり、ある程度のスポーツマンシップ的な息の掛け合いがあった。

しかし呉軍は計略ありきで、計略が決まって相手が弱ってから攻めてくる。

プライドが高く、内に敵と味方がはっきり分かれている関羽には呉は天敵だったといえる。

死後は、その義理堅さから、信用第一の商売人に信奉され神となった。

知名度としては君主の劉備や、上司の諸葛亮を超えてしまっている。



73 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:58:10 ID:HXU(主)
ふぅ、関羽ごめんよ。これで完!



74 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!


77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>74
いやっほー、一段落だぜい。ありがとー。



75 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)20:25:21 ID:wdw
いやー、面白かった!

魏延をそういうふうに見たことなかったから、とても興味深かったよ!

他にも知らないエピがあって、おれにとって良スレだった

乙!




77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>75
そう言ってただけるとありがてえってもんです。

でも俺も専門でやってた頃から10年ブランクがあるから結構間違いあるかもw



80 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:49:20 ID:HXU(主)
ええっと、すいません、まだ書き漏らしがありました。

画像フォルダをよく見返したら費禕と馬良がちゃんといました。

今から書き足します!



81 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:20:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/h7v2VYW.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_137438953471

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕の真似を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ当確を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能の楊儀と魏延の間に入って何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投稿をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定した。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投稿をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?



82 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:25:26 ID:HXU(主)
誤字がひどい、やり直し・・・次からはちゃんと推敲してから投稿しよう。

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ頭角を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能なほど仲が悪い楊儀と魏延の間に入って、何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投降をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定していた。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投降をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?




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