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喪失
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勇次はそんなわたしたちを冷めた目で見ていましたが、
「とりあえず帰ってくれないか。あんたがおれと寛子のセックスを覗き見してたことは、まあ許すからさ」
わたしはその言葉を聞いて、愕然としました。
「・・許すだと・・・! よくもぬけぬけとそんなことが言えるものだ・・・おまえはわたしの妻を」
「寛子は、おれを愛してるんだ。あんたとはもう終わりだよ」
勇次はまったく動揺することもなく、そう言い放ちました。
その呆気に取られるほど傲慢な態度は、わたしには理解すら出来ません。
若さとは、若いということは、かくも尊大でエゴイスティックになりうるものなのでしょうか。
「・・どうなんだ、寛子」
わたしは押し殺した声で、妻にそう問いました。
全裸の妻は衣服を顔に押し当てたまま、ぶんぶんと首を左右に振りました。
「帰ります・・・あなたと」
その言葉を聞いて、わたしはちらりと勇次を見ましたが、彼はなおも動揺した様子は見せず、薄笑いを浮かべていました。
わたしは思わずカッとなって、勇次を殴りつけました。
勇次は素早く身をかわし、わたしの拳はほんの少し、かするくらいにしか当たりませんでした。
わたしがなおも殴りかかろうとするのを、いつの間にか這い寄ってきた妻がわたしの足にすがりついて、
「もうやめて・・・帰りますから」
「ならさっさと着替えろ!」
思わずわたしがそう怒鳴ると、妻はひどくおびえたように服を着始めました。
ふたりは家までの帰り道を無言で歩きました。
妻はすすり泣きをやめません。
わたしは最愛の妻に裏切られたというおもいを、また新たにしていました。
先ほど帰りがけに勇次がまた見せた陰湿な薄笑いが脳裏から離れません。
胃の腑から這い上がってくるような憤怒が、胸を灼いています。
<バイトはもちろんクビだ。それから・・・わたしはおまえのことを絶対に許さないからな>
帰り際にそう吐き捨てたわたしに、
<勝手にしなよ>
そう言って、勇次は笑ったのです。
--------------------
・・・その日、わたしが感じた様々な敗北感は、けっして埋められない喪失として、わたしの胸にぽっかりと穴をうがちました。
しかし、わたしは、それが始まりに過ぎなかったこと、
そしてその後、自分が本当に妻を<喪失>することになるとは、まだ夢にもおもっていなかったのです。
--------------------
妻の浮気現場に乗り込んでいった日の夜のことです。
わたしもようやく心の整理がつき、妻も少し落ち着いてきたようだったので、わたしは夫婦の寝室に妻を呼び、浮気の経緯を聞いてみることにしました。
パジャマ姿の妻は、きちんと床に正座して、首をうなだれさせています。
まるでお白州に引き出された罪人のような風情でした。
わたしは聞きました。
「はじまりはいつだったんだ?」
「・・・勇次くんを雇って一ヶ月くらい経った頃です・・」
「どんなことがあったんだ?」
「金曜に勤務を終えて勇次くんが帰ったあとに、彼が財布を忘れていったことに気がついたんです・・・
勇次くんは土、日はうちに来ませんし、電話がないから呼び出すこともできません。
わたしは、その日のうちに財布を彼のうちまで届けてあげようとおもったのです・・・」
若い男の住む家に女ひとりで行く無防備な妻を咎めようにも、わたし自身、勇次の人柄を信用しきっていたので、あまり文句も言えません。
「もちろん、財布を届けてすぐ帰るつもりでした・・・でも、そのとき・・・」
妻はうつむき、くちごもりました。わたしは黙って話が再開されるのを待ちました。
やがて妻は決心したのか、わたしの顔をまっすぐ見つめて話しだしました。
「玄関に出てきた勇次くんは財布を受け取ってから、わたしに部屋にあがって休んでいったらどうか、と言いました。
娘も家でひとりで待っていることですし、わたしは断って帰ろうとしました。
そのとき、勇次くんがわたしの腕を掴んで・・・」
<奥さんのことが好きなんだ>
そう言ったらしい。
妻は突然の告白に驚いたが、勇次はかまわず、妻をこんこんとかき口説いたという。
財布を忘れたのも、妻が届けに来るのを見越してわざとしたのだ、とまで言ったようだ。
最初は、呆気にとられた妻も、勇次があまり熱心に、額に汗まで浮かべて熱弁するのに、次第に心を動かされていった。
もともと好感を持っていた若者に、三十八歳の自分が女性として見られているということも、普段は妻として、母として扱われている妻にとっては刺激的なことだったのだ。
「正直に言います。
わたしはそのとき、困ったことになったとおもいました。
でも心の中では・・・疼くようなよろこびも感じていたんです・・・
久しぶりに女として自分を認めてもらったというおもいがあったのだとおもいます」
そう語る妻は真剣な表情をしていた。
「それでその日は・・・?」
先ほど帰りがけに勇次がまた見せた陰湿な薄笑いが脳裏から離れません。
胃の腑から這い上がってくるような憤怒が、胸を灼いています。
<バイトはもちろんクビだ。それから・・・わたしはおまえのことを絶対に許さないからな>
帰り際にそう吐き捨てたわたしに、
<勝手にしなよ>
そう言って、勇次は笑ったのです。
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・・・その日、わたしが感じた様々な敗北感は、けっして埋められない喪失として、わたしの胸にぽっかりと穴をうがちました。
しかし、わたしは、それが始まりに過ぎなかったこと、
そしてその後、自分が本当に妻を<喪失>することになるとは、まだ夢にもおもっていなかったのです。
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妻の浮気現場に乗り込んでいった日の夜のことです。
わたしもようやく心の整理がつき、妻も少し落ち着いてきたようだったので、わたしは夫婦の寝室に妻を呼び、浮気の経緯を聞いてみることにしました。
パジャマ姿の妻は、きちんと床に正座して、首をうなだれさせています。
まるでお白州に引き出された罪人のような風情でした。
わたしは聞きました。
「はじまりはいつだったんだ?」
「・・・勇次くんを雇って一ヶ月くらい経った頃です・・」
「どんなことがあったんだ?」
「金曜に勤務を終えて勇次くんが帰ったあとに、彼が財布を忘れていったことに気がついたんです・・・
勇次くんは土、日はうちに来ませんし、電話がないから呼び出すこともできません。
わたしは、その日のうちに財布を彼のうちまで届けてあげようとおもったのです・・・」
若い男の住む家に女ひとりで行く無防備な妻を咎めようにも、わたし自身、勇次の人柄を信用しきっていたので、あまり文句も言えません。
「もちろん、財布を届けてすぐ帰るつもりでした・・・でも、そのとき・・・」
妻はうつむき、くちごもりました。わたしは黙って話が再開されるのを待ちました。
やがて妻は決心したのか、わたしの顔をまっすぐ見つめて話しだしました。
「玄関に出てきた勇次くんは財布を受け取ってから、わたしに部屋にあがって休んでいったらどうか、と言いました。
娘も家でひとりで待っていることですし、わたしは断って帰ろうとしました。
そのとき、勇次くんがわたしの腕を掴んで・・・」
<奥さんのことが好きなんだ>
そう言ったらしい。
妻は突然の告白に驚いたが、勇次はかまわず、妻をこんこんとかき口説いたという。
財布を忘れたのも、妻が届けに来るのを見越してわざとしたのだ、とまで言ったようだ。
最初は、呆気にとられた妻も、勇次があまり熱心に、額に汗まで浮かべて熱弁するのに、次第に心を動かされていった。
もともと好感を持っていた若者に、三十八歳の自分が女性として見られているということも、普段は妻として、母として扱われている妻にとっては刺激的なことだったのだ。
「正直に言います。
わたしはそのとき、困ったことになったとおもいました。
でも心の中では・・・疼くようなよろこびも感じていたんです・・・
久しぶりに女として自分を認めてもらったというおもいがあったのだとおもいます」
そう語る妻は真剣な表情をしていた。
「それでその日は・・・?」
「何もありませんでした。
わたしは彼を振りきって、家に帰ったのです。でも気持ちまでは・・。
わたしはその日、一睡もせずに、彼に言われたことや、そのとき自分が感じたことを思いかえしていました・・・
隣で寝ているあなたを見るたびに、こんな罪深い物思いはやめようとおもうのですが、気がつくと、また考えているのです」
わたしはそのとき、おもわず拳をぎゅっと握り締めていました。
「次の月曜に彼が店へやってきたとき、わたしはもうちゃんと彼の目を見ることもできませんでした・・・どぎまぎしてしまって・・・
でも、彼はまるで悠然としていて、勤務中もことあるごとにわたしに意味ありげな視線や言葉を投げてきました・・・」
「・・・勇次はこうおもっていたんじゃないか。この人妻は脈がある、もう少しでおとせる、とな」
怒気のこもった声で、わたしはそんな皮肉を言いました。
正直なところ、まるで恋した十代の女の子のように語る妻に、燃えるような嫉妬心をかきたてられていました。
「そうですね・・・そうだとおもいます・・・わたしが馬鹿だったんです・・・ごめんなさい」
「謝らなくてもいいから、先を続けてくれ」
わたしは冷淡な口調でそう言いました。
妻は語ります。
「そんなふうに日を過ごしているうちに、わたしの心は次第に勇次くんの誘惑にはまっていきました。
あなたを、娘を裏切るまいとおもっているのに、店で勇次くんと一緒に過ごし、彼に愛の言葉を告げられているうちに、わたしは段々と、まるで自分が勇次くんと恋をしているような・・そんな錯覚に陥ってしまったのです」
「それは錯覚なのか? 寛子はそのとき、本当に勇次の奴が好きになっていたんじゃないのか?」
「そんなこと・・・」
妻は切なそうな表情でわたしを見つめ、首を振りました。
「まあいい・・・それで?」
「その週の金曜の勤務が終わって勇次くんは帰りがけに、<明日の昼、うちに来て>と囁いたのです。
わたしは拒絶しましたが、勇次くんは<絶対に来てよ>と重ねて言って、そのまま帰っていきました。
わたしはその夜、また悶々と考えて・・・悩んで・・・」
「勇次の家に行ったんだな」
「・・・そうです・・・本当にごめんなさい・・・」
妻の瞳は涙できらきらとひかっていました。
「・・・それで?」
「あなたに嘘をついて、勇次くんの家に行って・・・その日のうちに彼に抱かれました
・・・それからは・・ずるずると関係を続けることになってしまって
・・・・ごめんなさい」
「いちいち謝るんじゃない。謝るくらいならこんなこと、はじめからするな」
「・・すみません・・・謝るしかできなくて・・すみません・・」
「それはもういいと言ってるだろ!」
嫉妬でおかしくなろそうなわたしは、自棄になって妻に乱暴な口をきいてしまいます。
「それで奴とのセックスはどうだった? おれとよりも気持ちよかったのか?」
「そんなこと・・・」
>>次のページへ続く
わたしは彼を振りきって、家に帰ったのです。でも気持ちまでは・・。
わたしはその日、一睡もせずに、彼に言われたことや、そのとき自分が感じたことを思いかえしていました・・・
隣で寝ているあなたを見るたびに、こんな罪深い物思いはやめようとおもうのですが、気がつくと、また考えているのです」
わたしはそのとき、おもわず拳をぎゅっと握り締めていました。
「次の月曜に彼が店へやってきたとき、わたしはもうちゃんと彼の目を見ることもできませんでした・・・どぎまぎしてしまって・・・
でも、彼はまるで悠然としていて、勤務中もことあるごとにわたしに意味ありげな視線や言葉を投げてきました・・・」
「・・・勇次はこうおもっていたんじゃないか。この人妻は脈がある、もう少しでおとせる、とな」
怒気のこもった声で、わたしはそんな皮肉を言いました。
正直なところ、まるで恋した十代の女の子のように語る妻に、燃えるような嫉妬心をかきたてられていました。
「そうですね・・・そうだとおもいます・・・わたしが馬鹿だったんです・・・ごめんなさい」
「謝らなくてもいいから、先を続けてくれ」
わたしは冷淡な口調でそう言いました。
妻は語ります。
「そんなふうに日を過ごしているうちに、わたしの心は次第に勇次くんの誘惑にはまっていきました。
あなたを、娘を裏切るまいとおもっているのに、店で勇次くんと一緒に過ごし、彼に愛の言葉を告げられているうちに、わたしは段々と、まるで自分が勇次くんと恋をしているような・・そんな錯覚に陥ってしまったのです」
「それは錯覚なのか? 寛子はそのとき、本当に勇次の奴が好きになっていたんじゃないのか?」
「そんなこと・・・」
妻は切なそうな表情でわたしを見つめ、首を振りました。
「まあいい・・・それで?」
「その週の金曜の勤務が終わって勇次くんは帰りがけに、<明日の昼、うちに来て>と囁いたのです。
わたしは拒絶しましたが、勇次くんは<絶対に来てよ>と重ねて言って、そのまま帰っていきました。
わたしはその夜、また悶々と考えて・・・悩んで・・・」
「勇次の家に行ったんだな」
「・・・そうです・・・本当にごめんなさい・・・」
妻の瞳は涙できらきらとひかっていました。
「・・・それで?」
「あなたに嘘をついて、勇次くんの家に行って・・・その日のうちに彼に抱かれました
・・・それからは・・ずるずると関係を続けることになってしまって
・・・・ごめんなさい」
「いちいち謝るんじゃない。謝るくらいならこんなこと、はじめからするな」
「・・すみません・・・謝るしかできなくて・・すみません・・」
「それはもういいと言ってるだろ!」
嫉妬でおかしくなろそうなわたしは、自棄になって妻に乱暴な口をきいてしまいます。
「それで奴とのセックスはどうだった? おれとよりも気持ちよかったのか?」
「そんなこと・・・」
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