成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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47 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:56:54 ID:HXU(主)
http://imgur.com/S4KxpFA.jpg

孫乾
パシリの達人。
パシリもここまでくれば大したものである。
劉備のパシリとして、中国全土を右往左往!
相手が袁紹だろうが劉表だろうがちゃんとお使いを済ませて劉備の居場所を確保して帰ってくる。
劉備が生き残った原因の一翼を担った存在である。
戦国時代に生まれていたら弁士として活躍しただろうに。もったいない。
酈食其なんか目じゃないぜ。
48 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:00:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/zhGURC5.jpg

張苞
張飛の長男・・・らしい。
名前だけが出てくるだけで、しかも父より先に死んだという記述のみ。
演義では なんかすごい活躍させられているが、本当は病弱な人だったんだろう。
49 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:03:31 ID:HXU(主)
http://imgur.com/0zdUmcM.jpg

張遵
張苞の子。
叔母が劉禅に嫁いでいることから外戚として勢力を持っていたらしい。
蜀滅亡時に戦死。
http://imgur.com/S4KxpFA.jpg
孫乾
パシリの達人。
パシリもここまでくれば大したものである。
劉備のパシリとして、中国全土を右往左往!
相手が袁紹だろうが劉表だろうがちゃんとお使いを済ませて劉備の居場所を確保して帰ってくる。
劉備が生き残った原因の一翼を担った存在である。
戦国時代に生まれていたら弁士として活躍しただろうに。もったいない。
酈食其なんか目じゃないぜ。
48 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:00:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/zhGURC5.jpg
張苞
張飛の長男・・・らしい。
名前だけが出てくるだけで、しかも父より先に死んだという記述のみ。
演義では なんかすごい活躍させられているが、本当は病弱な人だったんだろう。
49 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:03:31 ID:HXU(主)
http://imgur.com/0zdUmcM.jpg
張遵
張苞の子。
叔母が劉禅に嫁いでいることから外戚として勢力を持っていたらしい。
蜀滅亡時に戦死。
50 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:09:02 ID:HXU(主)
http://imgur.com/CyjpIXQ.jpg
劉諶
劉禅の五男。
張皇后との子供なら張飛の孫でもある。
蜀滅亡時に降伏しようとする父に反対。
国に殉じる意志を妻に伝えると妻は自害、その妻の首を持参して劉備の廟で自分の首を刎ねて自害した。
その行動を美談として受け取った後世の人から蜀漢国最後の輝きの様に語られている(像も金ぴかだし)
しかし、その熱意と行動力をもっと実践的な行動に移せなかったのかと俺は思う。
追い詰められた結果が自害とは、いかにも貴族的で、劉備が聞いたら嘆くと思う。
劉備なら全てを捨てて身一つで脱出し、屈せず機会を待ったと思う。
51 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:11:46 ID:HXU(主)
ここらへんになってくると像も適当になってくるw
左:関興
関羽の子。
父の死後、その後を継ぎ、諸葛亮に期待されたが数年で死んだ。
右:周倉
架空の人物。
関羽のそばにいたいという漢民族の願いが作り上げた妄想の産物。
52 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:12:27 ID:HXU(主)
>>51の画像はこれです。
52 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:12:27 ID:HXU(主)
http://imgur.com/56hVO1j.jpg
画像がまだアップ出来てなかったwww
53 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:17:23 ID:HXU(主)
http://imgur.com/FbyUJeY.jpg
左:関平
関羽の子。そう、史実では実子である。
そして、関羽と一緒に斬られたとのみ記述がある。
演義であれだけの活躍の場が与えられたのは、それだけ関羽が漢民族に愛されているということであろう。
それにしても、あの逃亡生活の中で、いつ戦場に出られるような子供を作る時間があったのだろう?
逆算すると徐州時代か曹操配下時代か?
右:趙累
荊州時代の関羽に付けられていた都督。
でも関羽はすげーワンマンだからあんまり活躍の機会なし。
ついに歴史に一言も名言を残すこともなく名を消した。
54 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:17:36 ID:Vrt
オウヘイって張コウだったか徐晃だったかの元部下だったのは演義?正史?
55 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:24:38 ID:HXU(主)
>>54
特に誰かの子飼いの部下だったって記述は正史にはないよ。
単純に定軍山の戦い辺りで曹操から小部隊を任されただけ。
その時々でどの指揮下に入ってたかわからないぐらいの部隊ってことでしょ。
57 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:58:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/YRbaYn0.jpg
簡雍
劉備の旗揚げ時代からの配下で生粋のゴロツキ。
劉備に寄生してブラブラしていたが、一宿一飯の恩義なのか、どんな苦難にも劉備を見捨てずついてくる。
しかし、あまり役にはたたない。
軍も率いることが出来ないし、策謀を巡らすわけでもない。
そんな彼は普段は劉備の話し相手をしたり、色んな所を出入りしていたりと、まさに無為徒食。
酒の席でもだらしなく、劉備や諸葛亮がいるのに寝そべって飲んだりとやりたい放題。
しかし、ヤクザが年取って人格者になるのと同じように、彼の無能具合も歳とともに凄みを増してくる。
交戦中の劉璋の城にぶらりと一人で現れて、居候になったり(軍を率いた実績や計略に関わった経歴がないから警戒されず無害だと思われたのだろう)
それで劉璋と仲良くなって劉璋を降伏に導いてしまう辺り、尋常な胆力と知力ではない。
というか、胆力と知力ではこれはなせる技ではないと思う。
思うに、彼は儒教や兵法的な胆力知力とは無縁の、老荘の徒だったのではないか?
無為を以って最後に有為をなした彼、そして無能だろうがなんだろうがついてくるものは抱え込む懐の深い劉備。
まさにこの君主をしてこの臣下ありといえる。
後は禁酒令をトンチで批判した話も有名だ。
水不足で禁酒令が出た時、酒造の道具を持っていた者が罰せられそうになった。
それを聞いた簡雍は街をゆく男女を指さし、「あいつらは姦淫罪を犯そうとしてるのに何で罰せられないんだ?」と劉備に聞いた。
びっくりした劉備が「何でそんなこと分かるの?」と聞くと、簡雍は「だって姦淫罪を犯す道具を持ってんじゃん」と揶揄した。
最高の皮肉だ。これで酒造の道具を持ってた人間は不問になった。
彼の飄々した人柄を表すエピソードだ。
58 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:25:41 ID:HXU(主)
http://imgur.com/Od859T9.jpg
呂凱
なんとあの呂不韋の後裔らしい。
しかし その人柄は篤実そのもの。
南蛮を徳化し人々にその誠実さを愛された。
南蛮がひとまず平安を保っていられたのは彼のおかげだろう。
しかしそんな彼も後に反乱で命を落とすことになるのだが・・・
平和な時代に生まれれば良い太守になっただろうに。
>>次のページへ続く
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