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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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59 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:32:08 ID:HXU(主)
http://imgur.com/VaOUjFw.jpg
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蔣琬

諸葛亮の後継者。

県令として適当な仕事をしてたが、ある日仕事もせずに酒のんで暮らしているのが劉備に見つかり罰せられそうになる。

そこを諸葛亮に、彼は県令の器なんかに収まる人材じゃないとフォローされて事なきを得てから諸葛亮の忠実な幕僚に。

彼の行政と軍人行動を支えるために日々数字と戦う毎日。

諸葛亮の仕事量に比例する数の業務をこなしていたのだから鉄人という他ない。

計算の鬼だ。

彼の後方支援のお陰で蜀軍は徴税も兵站も滞り無く行われていたと言って良い。

そんな彼を諸葛亮は死に挑んで後継者に指名した。

自分の仕事量を引き継げるのは彼しかいないと見込んだのであろう。

後を引き継いだ蔣琬は、常に諸葛亮と比較されて陰口を叩かれれても、諸葛亮に及ばないのは当然と聞き流して泰然と業務を続けたという。

まさに宰相の器であったと言える。

軍事には積極的に関わらなかったが、胆力は持ち合わせていて、理解もあった。

諸葛亮の影に隠れがちだが、蜀を支えた大きな異才と言える。



60 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:36:20 ID:HXU(主)
http://imgur.com/BcWbKah.jpg
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傅彤

傅僉の父。いきなり夷陵の戦いの退却時に名前が出てきて、呉軍に降伏勧告を受ける。

そこで漢の将軍は呉の犬畜生には降伏出来ないと拒否して戦死した。

ある意味、この一言で歴史に名の残した人物である。




61 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:42:34 ID:HXU(主)
http://imgur.com/OJ555vp.jpg
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董和

行政のプロ。劉璋、劉備と使える。

どこの太守になっても、法を順守し倹約に務め、民の暮らしが楽になるように努めた。

民に愛され、異動を取りやめる署名が行われるほどだった。

融通もきいて、ある罪に連座しそうになった李恢を合法的に助かるようにしむけた事もあった。

諸葛亮に敬愛され、彼は董和に行政を学んだ節が多い。

彼の目は君主ではなくて常に民に向けられていたと言って良いと思う。

使える君主が変わっても、彼の下の民は幸せだったのだから。



62 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:48:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/89XgttW.jpg
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陳震

蜀の外交官。

蜀と呉の間を度々往復した。

若年の頃は従軍もしていたようである。

誠実さを見込まれ使者に選ばれてたり太守を歴任したりと諸葛亮には気に入られていたようである。



63 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:52:51 ID:HXU(主)
http://imgur.com/KXSydou.jpg
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秦宓

高名な学者であり、人材派遣業も営む。

自身を招聘しに来た君主に何故か自分以外の人を紹介・斡旋する事を繰り返した。

劉備が入蜀してからは思うところがあったのか出仕してきた。

その後は劉備の関羽敵討を諌めたりしたりなんだり。



64 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:55:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/MEMoGLq.jpg
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楊洪

超地味キャラ。

覚えている人なんか居るのか?俺も思わず調べてしまった。

ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・




65 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU(主)
http://imgur.com/AlYDgEX.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_8589934591

程畿

ごめん、この人もマジで覚えてない・・・

一応正史は読んだはずなんだけど・・・

というわけでウィキ先生頼んます!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF



66 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU(主)
というわけで武侯祠の像は以上だぜ!

最期はウィキ頼りで情けなかったな!



67 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/P0KgpSY.jpg
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おまけ。

魏延

魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。

ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。


魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。

劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。

その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。

しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。

諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。

そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。



後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。

というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。

例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。

これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。

結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。

一体何のための北伐だったのか?


結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。

そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。

それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?

というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?

諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。

天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。

しかも、その実力は十分にあったと思う。

当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張郃の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。

結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。



68 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU(主)
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!




>>次のページへ続く
 
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