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二重人格
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「バカな気休めは、ほどほどにしろ! それじゃ、妻は解離性同一性障害だったと言うのか? デタラメを言うんじゃない。妻の記憶は途切れてなんかいないじゃないか!」


怒りに拳を震わせる私に女は言いました。


「さすがですね、竹下先生。確かに解離性同一性障害の場合、一般的には二つの人格間で記憶の共有はあり得ないとされて来ました。しかし、精神疾患の場合、けっこう例外もあるのです。最近は症例もいくつか報告されています」


「何だって? 君は医者か?」


「はい、こう見えましても精神科医の端くれです。奥様の場合も、出現した交代人格には、本当の意味では、ご主人との記憶は継承されていません。しかし、そこには、新しく形成されたご主人との関係の記憶があったのです」


「……」


料理が運ばれてきて、彼女と私の会話はしばし中断されました。


「分かりにくい言い方になって済みません。つまり、奥様の主人格と交代人格の間には、本当の意味の記憶の継承はないのですが、交代人格で奥様は、あなたとの真実の記憶、つまりあなたと奥様との間に実際にあった事柄ですが、その裏返しの記憶、いわば鏡像のような記憶を継承していたのです」


「それは、どういうことだ?」


「実生活で奥様は、あなたのことを自分には過ぎた理想的な人として尊敬し、そして、唯一の男性として深く愛して来たのです。そのことは精神科医として断言できます」


「……」


「しかし、奥様には解離性同一性障害がありました。発症の素因は、恐らく思春期に於ける経験に遡るものだと思われます」


並木純子と名乗った女の口調は、クライアントと接し慣れた精神科医のそれでした。

いつしか私は怒りを忘れて彼女の言葉に真剣に耳を傾けていました。


「簡潔に言えば、思春期に受けたある特異な経験によって、奥様の心には決定的な傷が生じたようでした」


「年月が経っても、その傷は癒えることはなく、奥様の心の奥底に深く沈潜していきました。しかし、その傷を無理矢理隠そうとすることで奥様は、解離性同一性障害を発症することになったと言うのが私の診断です」


「……」


「奥様が、先生の病院に転勤して来られた理由をお聞きになっていますか?」


「ああ、大都市の病院の気ぜわしさに疲れたと言っていたが……」


「それも嘘ではありません。でも、本当に理由は他にあったのです」


「それは何なんだ?」


「それは私の口からは言えません。しかし、東京の病院であったあることが、最終的に奥様の解離性同一性障害を引き起こす原因になったのだと思います」


「つまり、思春期に心に深く傷を負った遙海は、それを忘れようとしていた東京の病院で、あることに出会って、逆にそれを引き金に人格の分離を引き起こしてしまったと言うのかね、君は?」


「大筋はそのとおりです。そして、奥様は、そのことから逃れようと、前の病院を辞めてあなたの勤務する病院に移ったのです。

そこであなたに出会い奥様は、あなたのことを誰よりも、唯一、深く愛するようになりました。

けれども、奥様は、解離性同一性障害という厄介な病を持っておられました。

そして、そのことであなたを傷つけることを何よりも恐れていたのです」


俄には信じられないことですが、並木純子の言葉には、ある一定の説得力があったことは事実です。

いや、彼女の論理に頷くことに、私は救いを見出そうとしていたのかも知れません。

「奥様はあなたを愛し、あなたとの生活を何よりも大切に思っていました。

けれども、過去に受けた心の傷は余りにも深くて、奥様の意志とは関係なしに解離性同一性障害を引き起こしました。

逆説的に言えば、交代人格が現れることで、かろうじて奥様は心のバランスを保っていたのだと思います」


「交代人格で現実の記憶の裏返しとも言える主人格の記憶を引きずっていたことも、ご主人を忘れたくないという奥様の強い意志に依るものだと思います」


「……」


「ビデオの中で奥様は、あなたを傷つけるような言葉を吐きながら行為に及んでおられたでしょう。そのことであなたは深く傷つかれた……。でも、あれがあなたに対する奥様の愛の表現なのです。歪んではいますが、奥様の深い愛の現れなんですよ」


「何だか都合の良い話になってきたな」


「それでは、あなたはこれまで奥様と一緒に暮らしてきて、奥様のことを少しでも疑ったことがありましたか?」


「……」


彼女に言われるまでもなく、確かに、遙海は理想的な妻でした。

激務としか言いようがない勤務医の仕事をよく理解していた遙海は、私が疲労やストレスをため込まないよう、実に細やかに気遣ってくれていました。

しかも、その心遣いはわざとらしさを感じさせない、とても自然なものでした。

私が家に何の憂いもなく仕事に打ち込めたのも、遙海のおかげでした。

強いて言えば、子どもができなかったことと、夜の夫婦生活がいささか淡泊に過ぎるというのが不満と言えば不満でしたが、それを補って余りある遙海の深い思いやりを感じながら私は暮らしてきたのです。

ですから、並木純子の言う通り、妻のことを疑ったことなど露ほどもありませんでした。


「竹下先生、あなたのお立場では、なかなか信じてもらえないと思います。けれども、私が言ったことに嘘偽りはありません。誇張もしていませんよ」


「信じがたい話ですが、どうか、奥様のために信じてあげてください。あら、料理が冷えてしまいますわ」


それから、運ばれてきた料理に手をつけながら、私と並木純子は会話を交わし続けました。

突然に呼び出され、本意ではなかったにせよ、遙海のことを話題にして、誰かとじっくりと話すことを心の底で私は待望していたのかも知れません。

その時、何を食べ、何を飲んだのか、私にはほとんど記憶がありません。それほどに私は並木純子の話に引き込まれていました。


「ビデオで私のこともご覧になったのね?」


「ああ、見たよ……」


食事がほぼ終わった頃、適当にアルコールも入った二人の間には、それまでの敵対する緊張感とは違う空気が流れ出しているようでした。


「恥ずかしいわ……」


そう言って顔を伏せた純子は、敏腕の精神科医ではなく成熟した一人の女でした。頬やうなじが少し赤らんでいるのはアルコールのせいばかりではないようです。


「あれは、君にとっても治療の一環だったのじゃないのか?」


それには答えず彼女は今宵のお開きを宣しました。口調とどおりの冷静なものに戻っています。


「明日はお互いに勤務がありますので、今日はこの辺りでお開きにしましょう。今日は突然だったのにお付き合いしていただいてありがとうございました」


「私が本当のことだけをお話したことを信じてください。奥様のために……」


「よろしければ、週末にお会いできませんか? もう少しお話ししたいこともありますので……」


承諾のしるしに頷くと彼女はパッと美しい顔を輝かせましたが、その顔には安堵とともに別の不思議な表情が浮かんでいました。


 
 

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