喪失
わたしが昔、体験したことを書き込みます。
当時のことはまだ誰にも話したことはありません。気軽に話せることでもありませんし・・・。
かなり暗い話になると思いますが、ご笑読ください。
当時、わたしはちょうど五十歳でした。
妻の寛子は一回り若く、三十八歳。
晩婚だったため、子供はひとりで幼く、幼稚園に通う娘がいました。
わたしたち夫婦はエヌ市で個人商店を開いていました。
わたしは商品の仕入れ先や、お得意様を回るのに忙しく、店のほうは妻の寛子にまかせっきりになることも多かったのですが、なにしろ、まだ幼児の娘を抱える身なので大変です。
幸い、当時は経営状態もわるくはなかったので、わたしたちは相談して、手伝いのアルバイトを募集することにしました。
その募集を見て、ひとりの青年がやってきました。
須田勇次(仮名)という名の、いまでいうフリーターで、二十歳をすこし過ぎたくらいの若者です。
いまはフリーターとはいえ、勇次は見た目も清潔で感じもよく、はきはきと喋る快活な男でした。
もとは名門と呼ばれるH大学へ通っていたけれども、イラストレーターになるという夢のために中退し、いまはアルバイトをしながら、夜間の専門学校に通っている。
後になって、彼はわたしたちにそう言いました。
わたしたちはすぐに彼を気に入り、雇うことにしました。
勇次は、わたしが外に出る月、木、金曜日に店に来て、店番やらそのほか色々な雑務をすることになりました。
最初は何もかもが順調にいくように思えました。
勇次を雇って二週間ほど経った頃、彼について寛子に聞いてみると、
「店の仕事は熱心にするし・・・愛想もいいから商売に向いているみたいです」
「そうか。名門を中退してでも夢を追いかけて、夜間学校へ通っているくらいだからな。今どきの大学生みたいなボンボンとはちがって、ちゃんと仕事への気構えが出来ているんだろう」
「そうですね・・・ああ、そうそう、この前なんか彼、仕事が終わって下宿先へ帰る前に、
<奥さん、なんか家の仕事でおれにできることがあったら遠慮なく言ってください>
なんて言うんです。
ちょうど雨戸のたてつけが悪くて困ってたものですから、勇次君にお願いして直してもらいました」
「ほう。寛子もなかなか人使いが荒いな」
「いや・・・そんなこと」
「冗談だよ」
そんな会話をして、夫婦で笑ったものです。
そのときはやがて訪れる破滅のときを知りもしないで、遅くにできた愛する娘を抱え、わたしたち家族は幸せでした。
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勇次を雇って二ヶ月ほど経った頃のことです。
その日、妻は外出していて、わたしが店番をしていました。
わたしがいるときは、勇次は非番です。
近所で電気店を経営している金田さんが、店に入ってきました。
しばらく雑談をしていると、彼が急に妙なことを言い出したのです。
「この前の木曜だが、どうしてこの店閉まってたんだい?」
「木曜・・・何時ごろのことです?」
「さあ・・何時だったか・・昼の二時くらいだったと思うがなあ。
ちょっとうちを出て、この店の前を通りがかったときに、店の戸が閉まっているのが見えたんだよ。
中を覗いてみたけど、誰もいなかったような・・・」
(おかしいな・・)
わたしは思いました。
昼の二時といえば、まだ娘を幼稚園に迎えにいく時刻でもなく、店には妻の寛子と勇次のふたりがいたはずです。
どちらかが何かの用事が出来たにしても、残るひとりは店番をしているはずです。
妻からは何も聞いていません。
金田さんは何事もなかったかのように話題を変え、しばらく雑談しましたが、わたしの頭は先ほど引っかかったことを考え続けていました。
その夜、わたしは居間でテレビを見ながら、台所で忙しく食事の用意をしている妻に、何気なさを装って尋ねました。
「この前の木曜の昼に、店の前を通りがかった金田さんが、店が閉まっているようだったと言ってたんだが・・・何かあったのかい?」
「ああ・・・はい、娘の具合がわるいと幼稚園から連絡があったので、勇次くんに車を出してもらって、ふたりで迎えに行ったんです」
「聞いてないな」
「たいしたことはなく、結局、病院にも行かずじまいだったので、あなたには・・」
妻は振り向くこともせず、そう説明しました。
わたしはきびきびと家事をしている妻の後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと不安が胸に広がっていくのを感じていました。
心の中では、妻の言うことは本当だ、と主張する大声が響いていたのですが、その一方で、本当だろうか、とぼそぼそ異議を申し立てる声もあったのです。
結婚してからはじめて妻に疑いをもった瞬間でした。
もし、寛子が嘘をついているとして、それではそのとき寛子は何をしていたのか。
一緒にいた勇次は?
まさか・・いや、そんなはずはない。
妻と勇次では年が違いすぎる。
心の中では嵐が吹き荒れていましたが、顔だけは平然とした表情でわたしは妻を見ます。
妻の寛子は、そのおとなしい性格と同様に、おとなしい、やさしい顔をした女です。
どこかにまだ幼げな雰囲気を残していましたが、スタイルはよく、特に胸は豊満でした。
年甲斐もないと思いながら、当時のわたしは週に三日は妻を抱いていました。
とはいえ、妻の魅力は野の花のようなもので、誰にでも強くうったえかけるものではない。
わたしが惹かれるように、若い勇次が妻の女性に惹かれるようなことはない。
わたしは自分にそう言い聞かせました。
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そんなある日のことです。
妻は体調がすぐれなそうだったので、滅多にないことでしたが、わたしが娘を幼稚園に迎えに行きました。