誤解の代償
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「何をしているの。ちゃんと謝りなさい。私まで恥を掻くのよ。」
それを聞いて、男は慌てて頭を床に付けました。
「奥さん、どうか頭を上げて下さい。それから、そんな所に座らずに此方にどうぞ。家のも同罪ですから。」
妻も少し離れた所に俯きながら正座しています。
「いいえ、とんでも有りません。ここで充分です。
この度お伺いさせて頂いたのは、ご主人様にお願いが有って参りました。
家の主人がこんな事しておいて、大変申しずらいのですが、今宅の方は、もうご存知とは思いますが別居しております。
恥ずかしい話、私は勤めを持たないもので、この人から生活費を預かっております。
その事なのですが、ご主人様が この人の会社に行かれると、このご時世ですから最悪職を失ってしまいます。
自業自得ですから、この人には その方が薬になって良いのかも知れませんが、その・・・、私の生活費が心配になってしまいます。
子供も丁度お金が掛かる時でも有りますし、そこの所は何卒ご容赦願えないでしょうか。
その代わりと言っては何ですが、私は奥様に慰謝料の請求は致しません。」
何を勝手な事を言っているのかと思いましたが、決して綺麗な訳では有りませんが、清楚な感じの奥さんが、必死で頼み込む姿に、此処にも夫婦の割り切れない遣る瀬無さが有る様です。
「お気持ちは分かりますが、このまま二人を同じ職場に置く訳には行きません。
家の妻もこの歳迄働いて来て、大した理由も無く辞めさせて貰えるとも思えません。
もし了承されても、引継ぎ等である程度は会社に出なければならないと思います。その事を黙って見ている訳には行きません。
大変失礼なのですが、一つ聞いても宜しいでしょうか?」
「はい、構いませんが・・・」
「奥さんは、これから どうするおつもりなのでしょうか?またやり直されるおつもりですか?」
「・・・今は分かりません。でも、もう駄目かとも思います・・」
「それならば、今迄蓄えてきた財産と、家の奴からの慰謝料で何とかならないのでしょうか?もし、勤めるおつもりが有るのでしたら、私が紹介させて頂いても構いませんが。それで何とかならないでしょうか?」
その時、妻と男が同時に私の顔を見ました。私が気持ちを変えないからなのか、何かを企んでいるとでも思ったのか、私の知る所では有りません。
「そうして頂けると何とかやって行けると思います。
ただ・・・、本当の事を言いますと、この人とは長く生活して参りましたから、やはり情が無い訳では有りません。
今仕事を取り上げられてしまうと、この歳ですから再就職と言っても なかなか無いのではないかと存じます。そう思うと何故か不憫で・・・。
勝手な事をお願いしているのは重々承知しておりますが・・・・」
やはり愛情が有るのでしょう。長年夫婦でいた訳ですから、こんな男にでも その気持ち有るのは当然なのだと思います。
「私も奥さんのお話を聞いていて少し考えてみようと思いまが、ご期待に答えられるかどうか気持ちを整理しないと分かりません。
ただ、お宅のご主人に慰謝料は請求させて頂きます。
その為にも仕事は持っていて貰わないといけない訳ですし・・・。良く考えさせて頂きます。
それから、謝ってばかり居られますが、奥さんも家の奴に言いたい事が沢山有るかと存じます。どうか気兼ねしないで言ってやって下さい。」
妻は、頭を深く下げているだけで、何も言いません。
「いいえ、私から奥様に言う事は有りません。
ただ、人間って理性を持つ生き物なのに、どうしてこんな事をするのかと思います。
発覚した時の事を思うと、自制心が少し位は有っても良い筈です。特に女性には。」
奥さんの妻に対する、精一杯の嫌味だと感じました。
妻と男は1度も目を合わせる事も無く、ただうな垂れているだけで、親に叱られている子供の様でした。
一時の快楽に溺れた罰なのですから、当たり前なのですが、良い歳をして こんな姿は恥ずかしいものです。
私はこんな惨めな姿は、晒したくないものだと自分自身を戒めました。
田中の奥さんは、“明日にでも連絡を欲しい”と言い電話番号をメモして立ち上がりました。
田中達が帰った後、妻の会社に乗り込むかどうか、色々考えましたが、結論は出せませんでした。
妻は俯いたまま、私が動く度にビクビクしています。
「何をビクツイテいるんだ。見ていると苛つくから、何処かに行ってろ。そのまま帰って来なくても良いぞ。」
そう言っても妻は動きません。
「他所の奥さんの前で、あんな見っともない姿晒して恥ずかしいとは思わないのか?お前は おかげで俺まで いい恥さらしだ。」
言ってるうちに、どんどん口調が激しくなって行きます。
「ごめんね、・・・ごめんね、もう裏切らないから許して。」
妻は またすすり泣き始めました。
「何を泣いているんだ。うっとうしい。もう裏切ら無いって、1回裏切れば何度でも同じだ。頼むから出て行ってくれ。」
それでも妻は動かないので、私は娘の部屋に戻りました。。
今後の事を、話し合うつもりでいたのに、どうしても妻の顔を見ると腹が立って冷静でいられません。
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「志保その顔どうしたの?まさかあんた・・」
娘の部屋で横に成っていると、妻の腫れた顔を見て驚いた様な美幸さんの声が聞こえて来ました。
階段を降りて行くと、佐野と美幸さんが呆然とした表情で私を見ています。
「やあ、来てくれたのか。中に入れよ。」
私は佐野夫婦を中に招き入れましたが、今日は静かに時の流れに任せていたかったと言うのが、正直な気持ちでした。
佐野はソファーに座ると、おもむろに煙草に火を点け、
「何か有ったのか?お前が殴ったのか?」
「・・・・・・・・」
「おい、何が有った?」
私は妻に手を上げた事が有りません。その妻の顔があれ程腫れあがっています。何も無かったとは言えません。
私は言葉が出ず、佐野も何を言って良いのか分からない様で、無言の時間が続きました。
美幸さんはキッチンで、妻をいたわる様に何か話をしていますが、妻は泣いているばかりです。
「なあ、どうした?まさかだよな?」
佐野がポツリと言いました。
「・・・・佐野、・・・俺・・俺・・」
私は佐野の言葉を聞いた瞬間、涙が出そうに成り言葉が詰まりました。
長年付き合って来た友人は、全てを悟った様です。私の肩に手を置きました。
「そうなのか?」
佐野はキッチンに行き、妻と美幸さんに声を掛けました。
「志保ちゃん、何が有ったのか詳しくは分からないが、俺達に出来る事は無いのかい?こいつに言えない事でも美幸には話せ無いか?美幸、二人だけで話を聞いてやれ。」
二人は2階に上がって行きました。
「なあ、大体の事は想像が付くよ。これから如何する?」
「・・・・別れようと思っている。」
「そうか。お前は頑固だから俺が何を言っても駄目だろう。でもな、別れるのは何時でも出来るぞ。
お前達も、夫婦としての歴史が長いだろう。後から後悔する様な事は無いのか?
お前の気持ちは分かる。俺だってお前の立場なら そう思うだろう。
それでも冷静に成るまで結論は急がない方が良いと思うぞ。」
その通りなのでしょう。一時の感情に任せて結論を急げば、後から後悔するのは私なのかも知れません。
でも、その時の気持ちは、余りにも余裕の無いものでした。
暫らくして、妻達が戻って来ましたが、美幸さんも泣いていました。
「志保から色々聞きました。今回の事は、志保が悪いと思う。でもね、誤解も有った訳でしょう。
私達も志保の相談に乗ってあげられなかった。このまま別れられたら、私も責任を感じるの。
もう1度考え直してくれないかしら。来月帰って来る迄で良いから考えて。お願いします!」
美幸さんは妻を促し二人で深々と頭を下げました。
「俺も その方が良いと思うよ。」
3人の考えが一致した様です。
確かに私の心の中にも怒りから来る歯止めの効かない感情を、どうにかしなけえればと言う気持ちが無かった訳では有りません。
しかし、このまま許す事も含めて考えると言えば、振り上げた手の置き場が有りません。自分でも如何したら良いのか分からなく成って来ていました。
「志保ちゃん、こいつと一緒に行って出来る事は何でもしなければ。辛い事だけしか無いと思うけれど、それは仕様がないさ。出来るよね?」
妻は俯いたまま頷きました。
「僕は許すつもりは無いんだ。チャンスを与えるつもりも無かった。だけど、いろんな想いは確かに有る。
志保、これからお前は相当辛い思いをするだろう。それでも許せるとは限らない。
良いのか?耐えられるか?それなら、考えない事も無いが、あくまで離婚するのを延ばすだけだ。」
私は結論を先送りしてしまいましたが、何か安堵感を感じたのも事実でした。
「貴方ありがとう。ありがとう。」
これからが、本当の『戦い』です。
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佐野との話の中で、妻は会社を辞める事になりましたが、
“相手の男を追い詰めるのは返って危険な事にならないか?切り札的なものとして取って置いても良いのではないか?”
それは私的に納得出来ない部分も有りましたが、男の奥さんの言っていた事も含めて 納得するのも一理有るかなと思いました。
翌日、奥さんに電話を入れると、午前中に来るとの事でした。
佐野夫婦が帰ってから、一言も口を利いていない私に妻は腫れ物にでも触るかの様に接していますが、そんな態度にもイライラしてしまいます。
「何をビクビクしてるんだ。これから奥さんが来るぞ。昨日は黙ったままで謝りもしなかっただろう。今日は僕に恥を掻かすなよ。」
「・・・ごめんなさい。きちんとします。」
妻との離婚を思い留まったのが、どうい言う結果になるのか、正しい選択だったのかは、まだ迷っていましたが、そう結論を出したからには前に進むしか有りません。
進む事を選んだので有れば、私には知っておかなければならない事が山ほど有ります。
「なあ、あいつと関係を持つ様になってから どの位になる?」
「・・・初めの1ヶ月は何も無かったから・・・・」
「7ヶ月か。随分と騙し続けてくれたもんだな。ばれなかったら どうするつもりだった。まだ続けてはいただろうが、僕と別れるつもりだったか?」
「・・・続いていたと思います・・・・。でも、貴方と別れるつもりは無かった。ただ・・・。」
「ただ何だ?その内に分から無くなったかもしれないか?」
「いいえ、そんな事は無いわ。・・・ただ、そんな事をしていたとは、貴方に言えないから騙し続けただろうと思って・・・」
「それがどうした?僕が浮気をしていると思っていたんだから、別に気が咎める事も無かっただろう?勝手な言い分かも知れないが、男と女の浮気は本質的に違うと思う。
こんな考え方は もう古いのか知れない。でも、男は欲求を満たすだけに女を抱く事が出来る。だから、その為だけの店も山ほど有るんじゃないのか?
だけど女はどうだ?今の若い奴らなら どうかは分からないけど、僕ら達位になると、そうは行かないんじゃないだろうか?
お前は、あいつが既婚者だから、僕と別れる事を考えなかっんじゃ無いのか?」
「そんな事は無いです。あの人は奥さんと、もう別れる事になるだろうと言っていたし、もし、別れなくても私には、それなりの収入が有るし、そんな気持ちなら貴方と別れる方を選んでいます。」
「そんなものかな?理解出来ないな。良く分から無いよ。ただこれからは、お前の収入は無くなるからな。もう勝手な事は出来ないぞ。」
本当は、あいつとのセックスはどうだったのか?どんな事をしたのか?それも知りたかったのですが、言い出せませんでした。
それらの事を知ったからと言って、何の役に立つ訳でも有りませんが、どうしても気になってしまいます。
それらの事は、もう少し気持ちの整理が出来てから聞こうと思いました。
そうこうしている内に田中夫婦がやって来ました。
「お電話有難う御座いました。ご主人のお気持ちは決まりましたでしょうか?」
リビングに入ると、前日と同じく床に正座した奥さんは私に はっきりとした言葉で尋ねて来ました。何も人に後ろ指をさされる事の無い人間は堂々としています。
妻も こんな事が無ければ この様にしていられたのでしょう。何処に出しても恥ずかしく無い自慢の妻でした。それが今はオドオドして俯いている姿を見ていると、本当に情けなくなってしまいます。
「あのぅ奥様、この度は大変ご迷惑をお掛けしまして申し訳有りませんでした。なんとお詫びすれば良いのか・・・。本当に申し訳御座いません。」
妻は床に頭を付けて、絞り出すような声で言うと、
「貴方に謝って貰わなくても結構です。」
明かに私に対する態度とは違う、冷たい中に怒りをあらわにした言葉で制止ました。
当然な事だと思いましたが、その毅然とした態度に、この人の性格の強さが伝わります。
「ええ。決めました。この人には仕事を続けて貰いましょう。それから、私達は離婚を見合わせる事にしました。」
唐突な言葉に、男はチラリと私に視線を向けました。
「その代わり、まずは念書を書いて貰います。何時から不倫を続けたのか はっきりとさせて貰います。
妻は仕事を辞めさせますが、これから二人に何か有ったら、その時は会社に行かせて貰います。
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