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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>75
そう言ってただけるとありがてえってもんです。

でも俺も専門でやってた頃から10年ブランクがあるから結構間違いあるかもw



80 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:49:20 ID:HXU(主)
ええっと、すません、まだき漏らしがありまし

画像フォルダをよく見返したら禕と良がゃんといま

から書き足します!





81 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:20:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/h7v2VYW.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_137438953471

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕の真似を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ当確を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能の楊儀と魏延の間に入って何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投稿をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定した。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投稿をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?



82 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:25:26 ID:HXU(主)
誤字がひどい、やり直し・・・次からはちゃんと推敲してから投稿しよう。

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ頭角を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能なほど仲が悪い楊儀と魏延の間に入って、何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投降をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定していた。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投降をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?





83 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:33:08 ID:HXU(主)
http://imgur.com/rc9Dnxm.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_274877906943

馬良季常

馬謖の兄で、白眉の語源となった人。

彼には五人の兄弟がいたが、その中で彼が最も優れていた。

そして彼の眉は白かった為、集団の中で最も優れている人のことを白眉というようになったそうである。

(馬良兄弟は皆字に常という文字が入っていたので、馬氏の五常、つまり五人の常兄弟の中で白眉毛が一番いいね!って言われてた)

しかし実態は何の活躍もしないままいつの間にか死んでいた名前負けな人。

というと可哀想かな?でも周りから良いよ良いよって言われてる記述だけで、何の実績の記録もないという不思議な人。



84 :しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:40:12 ID:HXU(主)
、これで終わりな?ふぅ

まとめのメントで、いろ俺の人介に異唱えてくれている識者が一杯れて嬉し

俺の三国志なんて偏たものだしり個的ないで曲解されるし公平さなかないよ。

ただ、ちょっと三国に興味持ってた人層の深みハマる入り口なればなと思って、き嫌回で

ちゃした学問的な知識がる方どん正しい知識を露してださい

れと、リトがあるようなので、画はないでが、独断と偏見による人物紹介は続けていこうかと思います。

宜しく!







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