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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
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45 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:44:28 ID:HXU(主)
傅僉



44 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:41:44 ID:HXU(主)
>>41のは傅僉だった。



45 :名しさん@おー便2014/12/09(火)14:44:28 ID:HXU(主)
像は>>41
滅亡に降ずに蜀殉じて戦死したため、忠義のと讃えれた。

そのせいか、では創作で活の場増やさている



46 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:51:52 ID:HXU(主)
http://imgur.com/aESUUnW.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_262143

張翼

漢の功臣張良の子孫というバリバリの名家出身。

しかし、先祖の張良とは違ってバリバリの武闘派!

趙雲の指揮下で対曹操軍相手に活躍し、その功で各地の太守を歴任。

しかし法に厳しすぎて、法をいまいち理解できない異民族の反感を買い、統治に失敗。

更迭されたが、後任の馬忠がやりやすいようにと軍備はちゃんと整えて置いてあげるナイスガイ!

その後は北伐に従い前線で活躍し続け、戦術規模での勝利をし続ける。

が、後年は姜維の北伐に批判的で、その指揮下に従いなからも北伐を諌め続けた。

最期は蜀の降伏時の姜維と鐘会の反乱に巻き込まれて殺されるというかわいそうなものだった。





47 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)14:56:54 ID:HXU(主)
http://imgur.com/S4KxpFA.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_524287

孫乾

パシリの達人。

パシリもここまでくれば大したものである。

劉備のパシリとして、中国全土を右往左往!

相手が袁紹だろうが劉表だろうがちゃんとお使いを済ませて劉備の居場所を確保して帰ってくる。

劉備が生き残った原因の一翼を担った存在である。

戦国時代に生まれていたら弁士として活躍しただろうに。もったいない。

酈食其なんか目じゃないぜ。



48 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:00:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/zhGURC5.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_1048575

張苞

張飛の長男・・・らしい。

名前だけが出てくるだけで、しかも父より先に死んだという記述のみ。

演義では なんかすごい活躍させられているが、本当は病弱な人だったんだろう。



49 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:03:31 ID:HXU(主)
http://imgur.com/0zdUmcM.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_2097151

張遵

張苞の子。

叔母が劉禅に嫁いでいることから外戚として勢力を持っていたらしい。

蜀滅亡時に戦死。



50 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:09:02 ID:HXU(主)
http://imgur.com/CyjpIXQ.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_4194303

劉諶

劉禅の五男。

張皇后との子供なら張飛の孫でもある。

蜀滅亡時に降伏しようとする父に反対。

国に殉じる意志を妻に伝えると妻は自害、その妻の首を持参して劉備の廟で自分の首を刎ねて自害した。

その行動を美談として受け取った後世の人から蜀漢国最後の輝きの様に語られている(像も金ぴかだし)

しかし、その熱意と行動力をもっと実践的な行動に移せなかったのかと俺は思う。

追い詰められた結果が自害とは、いかにも貴族的で、劉備が聞いたら嘆くと思う。

劉備なら全てを捨てて身一つで脱出し、屈せず機会を待ったと思う。



51 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:11:46 ID:HXU(主)
ここらへんになってくると像も適当になってくるw

左:関興

関羽の子。

父の死後、その後を継ぎ、諸葛亮に期待されたが数年で死んだ。



右:周倉

架空の人物。

関羽のそばにいたいという漢民族の願いが作り上げた妄想の産物。



52 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:12:27 ID:HXU(主)
>>51の画像はこれです。



52 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:12:27 ID:HXU(主)
http://imgur.com/56hVO1j.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_8388607

画像がまだアップ出来てなかったwww





53 :無しん@ーぷ2014/12/09(火)15:17:23 ID:HXU(主)
http://imgur.com/FbyUJeY.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_16777215

:関
関羽の子。そう、史実では実子ある。

そし一緒斬られたのみ記述宿がある

演義であれだが与えられたのは、そだけ関羽が漢民族に愛されてるというこであろう。

にしても、あの逃亡生活の中いつるような子供を作る時間う?

と徐時代か曹操配西時代か



右:
時代羽にていた都督

でもすげーワ簿ンマんま躍の機会なし

に歴史に一言言を残すこともなく名を消し



54 :名無ん@ん :2014/12/09(火)15:17:36 ID:Vrt
ウヘイって張コ徐晃だったかの元部下だっ演義?史?


55 :名無しさん2014/12/09(火)15:24:38 ID:HXU(主)
>>54
誰かの子飼の部下だったって記は正よ。

単純に定軍山の戦い辺りで曹から小部隊を任 ただけ。

その時でど指揮下に入ってたかわからないぐらの部隊ってことでょ。



57 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)15:58:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/YRbaYn0.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_33554431

簡雍

劉備の旗揚げ時代からの配下で生粋のゴロツキ。

劉備に寄生してブラブラしていたが、一宿一飯の恩義なのか、どんな苦難にも劉備を見捨てずついてくる。

しかし、あまり役にはたたない。

軍も率いることが出来ないし、策謀を巡らすわけでもない。

そんな彼は普段は劉備の話し相手をしたり、色んな所を出入りしていたりと、まさに無為徒食。

酒の席でもだらしなく、劉備や諸葛亮がいるのに寝そべって飲んだりとやりたい放題。

しかし、ヤクザが年取って人格者になるのと同じように、彼の無能具合も歳とともに凄みを増してくる。

交戦中の劉璋の城にぶらりと一人で現れて、居候になったり(軍を率いた実績や計略に関わった経歴がないから警戒されず無害だと思われたのだろう)

それで劉璋と仲良くなって劉璋を降伏に導いてしまう辺り、尋常な胆力と知力ではない。

というか、胆力と知力ではこれはなせる技ではないと思う。

思うに、彼は儒教や兵法的な胆力知力とは無縁の、老荘の徒だったのではないか?

無為を以って最後に有為をなした彼、そして無能だろうがなんだろうがついてくるものは抱え込む懐の深い劉備。

まさにこの君主をしてこの臣下ありといえる。

後は禁酒令をトンチで批判した話も有名だ。


水不足で禁酒令が出た時、酒造の道具を持っていた者が罰せられそうになった。

それを聞いた簡雍は街をゆく男女を指さし、「あいつらは姦淫罪を犯そうとしてるのに何で罰せられないんだ?」と劉備に聞いた。

びっくりした劉備が「何でそんなこと分かるの?」と聞くと、簡雍は「だって姦淫罪を犯す道具を持ってんじゃん」と揶揄した。

最高の皮肉だ。これで酒造の道具を持ってた人間は不問になった。

彼の飄々した人柄を表すエピソードだ。



58 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:25:41 ID:HXU(主)
http://imgur.com/Od859T9.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_67108863

呂凱

なんとあの呂不韋の後裔らしい。

しかし その人柄は篤実そのもの。

南蛮を徳化し人々にその誠実さを愛された。

南蛮がひとまず平安を保っていられたのは彼のおかげだろう。

しかしそんな彼も後に反乱で命を落とすことになるのだが・・・

平和な時代に生まれれば良い太守になっただろうに。



59 :名無しさん :2014/12/09(火)16:32:08 ID:HXU(主)
http://imgur.com/VaOUjFw.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_134217727



諸葛亮の後者。

とし適当な仕してたある日仕事もせずに酒のんでしているの劉備につかり罰られそになる

そこを、彼県令の器なに収まる人じゃとフローされて事な得てから葛亮の忠実な幕僚に

彼の行政と軍人行動を支えるために日々字と戦う毎日

諸葛亮の事量に比例するの業務をこいたのだからいう他ない

計算の鬼だ

の後方支援陰で蜀軍は徴税も兵站無くたと

そんな諸葛亮は死んで後継者に指した

自分の仕事引き継げるのはしかいないと見んだのであ

後を継いだ蔣琬は、常に諸葛亮と較され陰口を叩か、諸葛亮ないのは然と聞き流して泰然と続けたとう。

まさに宰相のであったと言

軍事は積極的に関らなかったが胆力持ち合わせていて、理解た。

諸葛影にれがちが、蜀才とる。





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