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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする
(4ページ目)  最初から読む >>

 

64 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:55:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/MEMoGLq.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_4294967295

楊洪

超地味キャラ。

覚えている人なんか居るのか?俺も思わず調べてしまった。

ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・


65 :無しさん@おーん :2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU(主)
http://imgur.com/AlYDgEX.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_8589934591



ごめん、この人もで覚てない・

一応正史は読んだはずなん・・

うわけでウィキ先生頼婿ます!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF


66 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU(主)
というわけ祠の像は以上だぜ!

最期はウ頼り情けなった


67 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/P0KgpSY.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_17179869183

おまけ。

魏延

魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。

ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。


魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。

劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。

その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。

しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。

諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。

そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。



後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。

というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。

例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。

これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。

結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。

一体何のための北伐だったのか?


結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。

そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。

それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?

というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?

諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。

天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。

しかも、その実力は十分にあったと思う。

当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張郃の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。

結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。





68 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU(主)
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!


69 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD

関羽さんは関帝廟で別枠?


70 :名稿ん@おーぷん :2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU(主)
>>69
関帝廟???

中国全土の関帝廟やてたらだけで1000レス行きそうw

あれ?えば何で関羽ろう

画像見逃してたか西


72 :名@おーぷん :2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lucSG4p.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_34359738367

http://imgur.com/fWtHAjK.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_68719476735

全国のァンの皆様大変訳ありませんでした。


72 :名無しおーぷん :2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU(主)
関羽を見逃していて、し>>69大に指摘が付きませんでし沿

すい

というわけで、


関羽雲長

ゲがやたら長い備の

そして顔が赤黒。多分傍見たしい人

赤い物体かやたら長い毛が生たら鑼をジャージャーンジーンとらして、声を合わせ

げぇ、!」

と叫ぼう

話休題。

は義の人であ

曹操に下った時忠犬よろしへの義を貫いた。

尊のもあっ

プライドンビに高く、劉備以外くのを良しとしない人。

武勇と用兵もかりのもの、魏のだたる将を何度も退けている。

むの無理は

少なとも張遼と程度には評価されてと見て間

その見込は正、荊州で大活躍

ようやくまともな兵力と武装を手れたにもはや敵なし状態だった。

羽が居る限り、州を戻せかっただ婿

趣味として、春秋左氏伝きで片時。でもそ割には政治や外下手・・

は春秋左氏伝から一体何をんだろう

なとも政や外交んでなさそうだ



ライと外交の無さが仇って呉の略にはまあえない最期

曹操軍はあまでベースが王道で、味付け程度に計があた。

ら関羽と魏う時は、両将のプライドのぶつかり合いり、程度のスポーツマ的なの掛け合いがあった。

し呉軍は計りき、計略が決ま相手がってから攻めて

プライド内に敵と味方がはっきり分かれ稿ている関羽には呉は天敵だったとい

は、そ義理堅さから、信用に信奉され神となた。

知名度とては君主の劉備や諸葛を超えてっている


73 :名無ん@おーぷ :2014/12/09(火)17:58:10 ID:HXU(主)
めんよ。これで


74 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!




77 :無しさんーぷん2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>74
いやっほー、一段。あー。


75 :ん@おーぷん2014/12/09(火)20:25:21 ID:wdw
いやー、面白かった

魏延そういうふうにとなったかも興味かった

にも知ないエピがあって、れにってレだっ




77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>75
そう言ってただけるとありがてえってもんです。

でも俺も専門でやってた頃から10年ブランクがあるから結構間違いあるかもw


80 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:49:20 ID:HXU(主)
ええっと、すいません、まだ書き漏らしがありました。

画像フォルダをよく見返したら費禕と馬良がちゃんといました。

今から書き足します!


81 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:20:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/h7v2VYW.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_137438953471

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕の真似を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ当確を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能の楊儀と魏延の間に入って何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投稿をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定した。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投稿をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?


82 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:25:26 ID:HXU(主)
誤字がひどい、やり直し・・・次からはちゃんと推敲してから投稿しよう。

費禕

諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。

蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。

というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。

事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。

(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)

劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。

そこでメキメキ頭角を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・

しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。

特に会話不能なほど仲が悪い楊儀と魏延の間に入って、何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。

石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。

要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。

なんていいやつなんだ。

おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。

その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投降をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。

何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。

認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。

そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。

後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。

今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。

でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。

ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。

人の良い費禕には辛かっただろうと思う。

その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。

その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。

彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定していた。

そして、彼がどうして死んだかというと・・・

張嶷の懸念の通り、偽りの投降をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。

不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?




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