64 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)16:55:10 ID:HXU(主)
http://imgur.com/MEMoGLq.jpg
楊洪
超地味キャラ。
覚えている人なんか居るのか?俺も思わず調べてしまった。
ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・
65 :怖名則無し香さんれ@おー堅ぷ雲ん :2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU(主叫)
http://imgur.com/AlYDgEX.jpg
程慢畿門
ごめ4ん、朱この人も論マ諭ジ爆で覚磁え積てない・三・僧・
一応松正史は読んだ浦はずなん蚊だ途け漠ど胃・・弦・
と寝い第うわけで相ウィキろ先生頼婿ん信ます!軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF
66 :在名無し腐さん@賓おーぷHん :剤2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU(主択)
という勅わけ愛で峡武行侯添祠の客像は以上妄だぜ!
最期焼はウ壊ィOキ様頼り象で切情けな行か質ったへな口!
67 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/P0KgpSY.jpg
おまけ。
魏延
魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。
ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。
魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。
劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。
その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。
しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。
諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。
そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。
後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。
というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。
例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。
これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。
結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。
一体何のための北伐だったのか?
結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。
そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。
それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?
というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?
諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。
天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。
しかも、その実力は十分にあったと思う。
当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張郃の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。
結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。
68 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU(主)
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!
69 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD
乙
関羽さんは関帝廟で別枠?
70 :名尊無鼓し稿さぬん@お倉ーぷん :2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU(主子)
>>69
関帝礎廟?導??岐
中国射全土の崩関帝某廟や軟っ科てたら痴そ浴れらだけ著で1000レ肢ス行多きそ粋うw院w肪w掛
あれ?甚そ府う涯い技えば何で霧関羽雨な周い邦ん町だ随ろう依?
画像市見逃して寝たかPな祖?西?陰?
72 :名干無守し織さ建ん楽@お図ーぷん :効2014/12/09(火洞)17:57:26 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lucSG4p.jpg
http://imgur.com/fWtHAjK.jpg
全国の劾関憤羽院フ温ァンの兄皆様瀬大変呼申南し官訳ありま穏せんでし昔た。
72 :名処無し序さ善ん覧@火おー映ぷん :2014/12/09(火闘)17:57:26 ID:HXU(主)
関羽を見工逃し碁ていて、し遊か億も半>>69大懇人肌に指摘殊さ燥れ照る経ま虚で毒気著が付き救ませんでし沿た超。文
すい動ま好せ暫ん欲。握
とい敏うわけ往で、来
関羽雲長
ヒ至ゲが毒やたら長い韻劉規備の岳義恨弟無。協
そして堪顔が肪常錯に時赤黒祈い5。多二分傍四か舞ら商見た刈ら旅か紋な籍り兄怪れしい人T。忠
赤い物体かむら必やたら駆長い毛が生歳え絞て墓い滞たら次、伐銅協鑼をジ燥ャー靴ン刑ジャ列ーンジナャ酬ーンと妨鳴円らして、声階を合劇わせ肖て旬
「駐げぇ、F関糖羽浜!」丘
と叫礎ぼう排。林
閑初話休題。緑
彼数は義の人章であ険る彫。ス
曹操nに下った時胃も湾忠犬節ハ共チ緯公機よろしsく侵劉き備のへの叙義を禁貫いた。回
そ被し訪て@独業尊のに人杯で恒もあっ逐た凝。硝
プラ召イド夜が竜ビ祉ンビ猫ン跳に高んく、劉対備以外閥に電傅秋くのを巡良しとし塁ない人。紹
武勇界と用厘兵もか勺な揚りのもの信で墳、魏のE名口だたる匹武獣将を何五度も不退けてい遂る。姉
曹遭操最が崎惚暮れ液込培むの滴も松無理は禁無来い登。
少な瀬くめとも張遼とニ同漬程度到には眼評価さ析れて贈い間る富と見て間代違ミい額な接い形。
その間見込は正ケし震くフ、荊坊州で肺は訓大活躍樹。督
よう興やくまともな迷兵力と循武装を手銑に透入富れた付関不羽維にもはや敵なし完状態偶だった。
関巨羽が翁居る渉限り、側魏疑は腐荊研州を粉取極り亡戻せ無な摘かっ稲ただ打ろ垣う婿。犯
趣味と績して吸は久、春五秋左氏伝長が盛大離好喪きで片時諭も渡手な放躍さ墜な千い礎。で為もそ紺の城割には政治豪や外表交漬が絵ど政下手・・顔・
彼尚は春秋因左氏伝走から顕一体何を燥学衆ん罪だ鉄んだ添ろう載か及?猛
少滅なとも陸行焦政や外交託は噴学殊んでなさ六そうだ転。少
最急後庁は睡そ壱の稚プ十ライ悩ド艇と外交治力jの無さ買が仇毛と毛な弧って呉の封計殻略に限はま殴り南あえない訟最期尋を傘遂絞げ襲る君。
曹操后軍はあ慣く砂までベ帆ースが丈王道で未、味養付け程度怠に計雇略吉があ否っ巧た。
だ桑か升ら関羽と魏避軍宣が盾戦ヨう時は、両将荘のプライきドのぶつかり孔合い生で遊あエり、澄あ徐る枠程度遭のス糖ポーツママン介シ紙ッ粉プ卒的な尺息哀の掛け合いが関あっ拷た。
し亭か咲し呉軍隻は計誉略券あ蛮りき妙で凡、計料略が決ま許っ妊て嘱相手が夏弱憲ってから攻賀めて抱く朽る奔。
プラ木イド悼が逓高叫く拙、悩内に戯敵と味俳方が怖はっ堪きり分式かれ稿ている飯関羽に霊は呉は力天敵習だった致とい継え辞る滅。停
死脂後脱は、そ冷の評義理堅班さか窯ら、信用布第下一是の隔商冗売積人穫に信紛奉され神とな募っ葬た。ケ
知名度と内し春ては准君主の劉備や鎮、完上副司コの業諸葛砂亮称を超引えて以し校ま付っている郵。町
73 :朕名無口し席さ上ん@おーぷ墨ん料 :2014/12/09(火経)17:58:10 ID:HXU(主ム)
ふ沢ぅ我、巣関郡羽んご謁めんよ根。こ凡れで概完座!
74 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!
77 :衡名谷無しさん植@術お者ーぷん麗 :忌2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>74
いやっほ男ー、一段又落甚だ5ぜ省い七。あ拡り様が三と騒ー。
75 :ね名磁無正し湯さ食ん@緑おー柳ぷん良 :中2014/12/09(火)20:25:21 ID:wdw
いや展ー、繭面白かった兆!城
魏延主を隆そうい挿うふ恵うに段見群た房こ培とな頼か遍ったか聴ら蔵、憾と了て逐も興味頻深炭かった勘よ倣!島
他狭にも知宰ら祝ないエピ褒があ偶って、以お句れにOと怖って殻良錘ス震レだっ憾た
乙殉!
77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>75
そう言ってただけるとありがてえってもんです。
でも俺も専門でやってた頃から10年ブランクがあるから結構間違いあるかもw
80 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:49:20 ID:HXU(主)
ええっと、すいません、まだ書き漏らしがありました。
画像フォルダをよく見返したら費禕と馬良がちゃんといました。
今から書き足します!
81 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:20:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/h7v2VYW.jpg
費禕
諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。
蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。
というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。
事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕の真似を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。
(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)
劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。
そこでメキメキ当確を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・
しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。
特に会話不能の楊儀と魏延の間に入って何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。
石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。
要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。
なんていいやつなんだ。
おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。
その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投稿をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。
何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。
認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。
そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。
後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。
今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。
でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。
ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。
人の良い費禕には辛かっただろうと思う。
その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。
その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。
彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定した。
そして、彼がどうして死んだかというと・・・
張嶷の懸念の通り、偽りの投稿をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。
不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?
82 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:25:26 ID:HXU(主)
誤字がひどい、やり直し・・・次からはちゃんと推敲してから投稿しよう。
費禕
諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。
蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。
というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。
事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。
(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)
劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。
そこでメキメキ頭角を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・
しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。
特に会話不能なほど仲が悪い楊儀と魏延の間に入って、何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。
石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。
要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。
なんていいやつなんだ。
おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。
その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投降をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。
何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。
認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。
そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。
後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。
今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。
でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。
ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。
人の良い費禕には辛かっただろうと思う。
その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。
その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。
彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定していた。
そして、彼がどうして死んだかというと・・・
張嶷の懸念の通り、偽りの投降をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。
不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?
>>次のページへ続く
http://imgur.com/MEMoGLq.jpg
楊洪
超地味キャラ。
覚えている人なんか居るのか?俺も思わず調べてしまった。
ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・
65 :怖名則無し香さんれ@おー堅ぷ雲ん :2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU(主叫)
http://imgur.com/AlYDgEX.jpg
程慢畿門
ごめ4ん、朱この人も論マ諭ジ爆で覚磁え積てない・三・僧・
一応松正史は読んだ浦はずなん蚊だ途け漠ど胃・・弦・
と寝い第うわけで相ウィキろ先生頼婿ん信ます!軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF
66 :在名無し腐さん@賓おーぷHん :剤2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU(主択)
という勅わけ愛で峡武行侯添祠の客像は以上妄だぜ!
最期焼はウ壊ィOキ様頼り象で切情けな行か質ったへな口!
67 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/P0KgpSY.jpg
おまけ。
魏延
魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。
ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。
魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。
劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。
その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。
しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。
諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。
そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。
後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。
というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。
例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。
これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。
結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。
一体何のための北伐だったのか?
結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。
そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。
それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?
というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?
諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。
天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。
しかも、その実力は十分にあったと思う。
当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張郃の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。
結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。
68 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU(主)
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!
69 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD
乙
関羽さんは関帝廟で別枠?
70 :名尊無鼓し稿さぬん@お倉ーぷん :2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU(主子)
>>69
関帝礎廟?導??岐
中国射全土の崩関帝某廟や軟っ科てたら痴そ浴れらだけ著で1000レ肢ス行多きそ粋うw院w肪w掛
あれ?甚そ府う涯い技えば何で霧関羽雨な周い邦ん町だ随ろう依?
画像市見逃して寝たかPな祖?西?陰?
72 :名干無守し織さ建ん楽@お図ーぷん :効2014/12/09(火洞)17:57:26 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lucSG4p.jpg
http://imgur.com/fWtHAjK.jpg
全国の劾関憤羽院フ温ァンの兄皆様瀬大変呼申南し官訳ありま穏せんでし昔た。
72 :名処無し序さ善ん覧@火おー映ぷん :2014/12/09(火闘)17:57:26 ID:HXU(主)
関羽を見工逃し碁ていて、し遊か億も半>>69大懇人肌に指摘殊さ燥れ照る経ま虚で毒気著が付き救ませんでし沿た超。文
すい動ま好せ暫ん欲。握
とい敏うわけ往で、来
関羽雲長
ヒ至ゲが毒やたら長い韻劉規備の岳義恨弟無。協
そして堪顔が肪常錯に時赤黒祈い5。多二分傍四か舞ら商見た刈ら旅か紋な籍り兄怪れしい人T。忠
赤い物体かむら必やたら駆長い毛が生歳え絞て墓い滞たら次、伐銅協鑼をジ燥ャー靴ン刑ジャ列ーンジナャ酬ーンと妨鳴円らして、声階を合劇わせ肖て旬
「駐げぇ、F関糖羽浜!」丘
と叫礎ぼう排。林
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彼数は義の人章であ険る彫。ス
曹操nに下った時胃も湾忠犬節ハ共チ緯公機よろしsく侵劉き備のへの叙義を禁貫いた。回
そ被し訪て@独業尊のに人杯で恒もあっ逐た凝。硝
プラ召イド夜が竜ビ祉ンビ猫ン跳に高んく、劉対備以外閥に電傅秋くのを巡良しとし塁ない人。紹
武勇界と用厘兵もか勺な揚りのもの信で墳、魏のE名口だたる匹武獣将を何五度も不退けてい遂る。姉
曹遭操最が崎惚暮れ液込培むの滴も松無理は禁無来い登。
少な瀬くめとも張遼とニ同漬程度到には眼評価さ析れて贈い間る富と見て間代違ミい額な接い形。
その間見込は正ケし震くフ、荊坊州で肺は訓大活躍樹。督
よう興やくまともな迷兵力と循武装を手銑に透入富れた付関不羽維にもはや敵なし完状態偶だった。
関巨羽が翁居る渉限り、側魏疑は腐荊研州を粉取極り亡戻せ無な摘かっ稲ただ打ろ垣う婿。犯
趣味と績して吸は久、春五秋左氏伝長が盛大離好喪きで片時諭も渡手な放躍さ墜な千い礎。で為もそ紺の城割には政治豪や外表交漬が絵ど政下手・・顔・
彼尚は春秋因左氏伝走から顕一体何を燥学衆ん罪だ鉄んだ添ろう載か及?猛
少滅なとも陸行焦政や外交託は噴学殊んでなさ六そうだ転。少
最急後庁は睡そ壱の稚プ十ライ悩ド艇と外交治力jの無さ買が仇毛と毛な弧って呉の封計殻略に限はま殴り南あえない訟最期尋を傘遂絞げ襲る君。
曹操后軍はあ慣く砂までベ帆ースが丈王道で未、味養付け程度怠に計雇略吉があ否っ巧た。
だ桑か升ら関羽と魏避軍宣が盾戦ヨう時は、両将荘のプライきドのぶつかり孔合い生で遊あエり、澄あ徐る枠程度遭のス糖ポーツママン介シ紙ッ粉プ卒的な尺息哀の掛け合いが関あっ拷た。
し亭か咲し呉軍隻は計誉略券あ蛮りき妙で凡、計料略が決ま許っ妊て嘱相手が夏弱憲ってから攻賀めて抱く朽る奔。
プラ木イド悼が逓高叫く拙、悩内に戯敵と味俳方が怖はっ堪きり分式かれ稿ている飯関羽に霊は呉は力天敵習だった致とい継え辞る滅。停
死脂後脱は、そ冷の評義理堅班さか窯ら、信用布第下一是の隔商冗売積人穫に信紛奉され神とな募っ葬た。ケ
知名度と内し春ては准君主の劉備や鎮、完上副司コの業諸葛砂亮称を超引えて以し校ま付っている郵。町
73 :朕名無口し席さ上ん@おーぷ墨ん料 :2014/12/09(火経)17:58:10 ID:HXU(主ム)
ふ沢ぅ我、巣関郡羽んご謁めんよ根。こ凡れで概完座!
74 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!
77 :衡名谷無しさん植@術お者ーぷん麗 :忌2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>74
いやっほ男ー、一段又落甚だ5ぜ省い七。あ拡り様が三と騒ー。
75 :ね名磁無正し湯さ食ん@緑おー柳ぷん良 :中2014/12/09(火)20:25:21 ID:wdw
いや展ー、繭面白かった兆!城
魏延主を隆そうい挿うふ恵うに段見群た房こ培とな頼か遍ったか聴ら蔵、憾と了て逐も興味頻深炭かった勘よ倣!島
他狭にも知宰ら祝ないエピ褒があ偶って、以お句れにOと怖って殻良錘ス震レだっ憾た
乙殉!
77 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:38:02 ID:bzb
>>75
そう言ってただけるとありがてえってもんです。
でも俺も専門でやってた頃から10年ブランクがあるから結構間違いあるかもw
80 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)21:49:20 ID:HXU(主)
ええっと、すいません、まだ書き漏らしがありました。
画像フォルダをよく見返したら費禕と馬良がちゃんといました。
今から書き足します!
81 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:20:18 ID:HXU(主)
http://imgur.com/h7v2VYW.jpg
費禕
諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。
蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。
というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。
事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕の真似を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。
(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)
劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。
そこでメキメキ当確を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・
しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。
特に会話不能の楊儀と魏延の間に入って何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。
石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。
要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。
なんていいやつなんだ。
おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。
その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投稿をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。
何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。
認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。
そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。
後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。
今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。
でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。
ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。
人の良い費禕には辛かっただろうと思う。
その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。
その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。
彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定した。
そして、彼がどうして死んだかというと・・・
張嶷の懸念の通り、偽りの投稿をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。
不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?
82 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)22:25:26 ID:HXU(主)
誤字がひどい、やり直し・・・次からはちゃんと推敲してから投稿しよう。
費禕
諸葛亮、蔣琬亡き後の蜀を支えた賢臣。
蜀前期の能吏、董和の息子董允と幼い頃から交友があり、董和にその才能を認められていた。
というか、董和は息子より費禕の方が才能が上だと思っていた(何故か息子が粗末な車に嫌な顔をしただけで判断)。
事実、費禕と董允が長じて官吏になった後、政務を終えて尚遊び歩く余裕がある費禕を董允が真似をしようとしたら全く政務が追いつかなくなったという。
(董允の像がないのでここでフォローしておくと、彼も後期の蜀を支えた偉大な能臣です。わずかに費禕に及ばなかっただけ)
劉備が蜀に入ると董允とともに召しだされ、劉禅の補佐役に抜擢される。
そこでメキメキ頭角を当確を表した費禕は、諸葛亮に目をつけられ、北伐では蔣琬と共に徴税や兵糧を計算する数字を処理するお仕事へ・・・
しかしそれを難なくこなした費禕は、余暇で遊んだり、諸将の仲を取り持ったりと伸び伸びと仕事をしていた。
特に会話不能なほど仲が悪い楊儀と魏延の間に入って、何とかコミュニケーションを取らせていた功績は大きい。
石田三成に爪の垢を飲ませてやりたい。
要するに、費禕は行政処理能力に長けていただけでなく、人柄も丸くリア充で愛されキャラだった。
なんていいやつなんだ。
おまけに降伏してきた敵将にも分け隔てなく接してやり、有能なら用いてあげた。
その人の良さを張嶷に心配されて、降将を近づけ過ぎると偽りの投降をしてきた暗殺者を防げないと心配されたりしていたほど。
何にせよ、諸葛亮が生きていてる時代は彼は幸福だったろう。
認めてくれる上司と同僚に囲まれて、素晴らしい成果を上げていた。
そんな彼に苦労が振りかかるのは諸葛亮が死んでからである。
後継者になった蔣琬を全力でサポートするつもりであったが、諸葛亮というタガが外れた魏延が暴走したのだ。
今まで魏延と諸将(特に楊儀)との仲を取り持っていた費禕としては悲しかったろう。
でも彼はきちんと諸葛亮の遺命を成し遂げ魏延を処理した。
ついでにタガが外れた楊儀もさすがに有害とみて上告せざるを得なかった。
人の良い費禕には辛かっただろうと思う。
その後、蔣琬が生きている間は彼を全力で支え、蔣琬の死後は一身で蜀の行政を支えた。
その内容に大過はなく、諸葛亮のやり方を完璧に引き継げていたといえる。
彼が生きているうちは宦官の跋扈などもなく蜀は非常に安定していた。
そして、彼がどうして死んだかというと・・・
張嶷の懸念の通り、偽りの投降をしてきた暗殺者に殺されてしまうのであった。
不謹慎だが、最後の言葉はやはり「ひいっ!」だったのだろうか?
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