今から十数年も前の出来事なのに、今でも思い出す度に胸が苦しくなってきます。
「やっぱり私も行きたい」
「無理を言うなよ。子供達の学校はどうする?」
「お母さんに・・・・・・」
確かに妻の実家が近いので、共働きの私達は絶えず子供達を預かってもらっていました。
「それに久美も仕事があるだろ」
「分かっているの。無理な事は分かっている。でも・・・・・・」
「工場が軌道に乗ったら現地の人間に任せて帰って来られるから、長くても一年の辛抱だから」
「毎月帰って来てくれる?」
「無理を言うなよ。いくら近いと言っても国内じゃないのだぞ。お盆や正月以外にも、休暇をとって帰って来るようにするから、子供達の事は頼む」
それからの私達は新婚当時に戻ったかのように、毎日激しく交わって愛を確かめ合い、十日後には空港に向かっていました。
「遊びでも絶対に浮気しないでよ。一度でも浮気したら離婚だからね」
空港で別れる時にこのような事を言っていた妻が、まさか,このような事をしようとは思いもしませんでした。
妻とは高校の同級生で、付き合いを含めれば二十年近くも一緒にいる事になり、30代半ばになっていたにも関わらず休日はほとんど行動を共にし、出掛ける時は子供が一緒の時でも腕を組んでいたので、近所でもオシドリ夫婦で通っていました。
それが,勤めていた会社が中国進出を決めた事で、高校の時から三日以上逢わずにいた事のない私達が、離れ離れになってしまいます。
その上,いざ向こうに行ってみると,思ったように休みの取れる状態では無く、ゴールデンウイークにも帰国出来ずに、どうにか帰って来られたのは日本を旅立ってから四ヶ月も経ったお盆でした。
その時の私達は,赴任が決まった時のように毎晩交わり、赴任先に戻る前夜の妻は、終わった後も涙を流しながら抱き付いて来て離れません。
「寂しいの」
私もそのような妻が愛しく思えて抱き締めて眠りましたが、次に帰って来た時の妻に変化が起こります。
それは後で分かったことですが、その時の妻は私への愛を確かめようとしていたのです。
確かめると言うよりも、私から離れていく気持ちを、もう一度私にしっかりと繋ぎ止めてもらおうとしていたのかも知れません。
「私の事愛してる?私は好き。私はあなたを愛している」
妻は私に纏わり付き、絶えず愛を口にします。
夜になれば妻から毎晩迫ってきて、私の全身に舌を這わすなど、このような積極的な妻は今まで見た事がありません。
「あなたが好き。あなたが大好き」
それは自分に言い聞かせる言葉だったのですが、この時の私には分かりませんでした。
そして,次に帰国出来た翌年の春、妻は違った変化を見せます。
***
それは三日間だけの帰国で、金曜はその足で会社に行かなければならなかったので土曜は一日中妻と過ごし、日曜の午後には赴任先に戻る予定でしたが、前もって言ってあったにも関わらず、妻は土日が仕事になったと言います。
その時の妻はなぜか暗く沈んでいて、前回のように私に愛を囁く事も無く、事あるごとに謝り続けていました。
「ごめんなさい」
「何をそんなに謝っている?」
「ううん。折角帰って来てくれたのに、休日出勤になってしまったから」
それは夜も変わらず、なぜか妻は謝り続けていました。
「あなた、ごめんなさい」
「昼間から、ずっと謝ってばかりいるな」
「こんな時に生理が来てしまったから」
「仕方ないよ。抱き合って眠ればいいじゃない」
「そうだ。子供達も寂しがっていたから、今日は四人で寝ましょう」
強引に布団を運び込む妻に不自然さを感じながらも、トラブル続出で転勤が半年以上延びる事になった私は、妻に申し訳ないという気持ちが強くて何も言えません。
しかし,妻は、その年の夏季休暇も私と二人になると謝るばかりで、夜もまた生理を理由に拒み続け、流石の私もおかしいと思いながらも仕事は待ってはくれず、後ろ髪を引かれる思いで赴任先に戻りました。
そして,十月にようやく単身赴任も終わり、帰って来ると一番に妻を抱き締めましたが、妻は身体を硬くして涙まで流しています。
私はその涙を嬉し涙だと思ってしまい、疲れも忘れて早速妻を誘ってみると生理が来たと言って断わられ、一週間経つと今度は身体の不調を訴えて、妻と交わる事も無く十日が経ちました。
「今夜はいいだろ?」
私は我慢の限界を迎えていて、強引に押し倒すと妻は私との間に腕を差し込み、私を遠ざけようと胸を押して、涙を流しながらキスを拒みます。
「ごめんなさい・・・出来ないの・・・ごめんなさい」
「出来ない?どう言う意味だ!」
「彼が・・・・・・・」
私には妻の言っている意味が理解出来ませんでした。
「彼?」
「ごめんなさい・・・・・好きな人がいるの」
全ての物が崩れ去る音が聞こえ、怒りよりも悲しみが襲ってきます。
「こんな時に冗談はやめてくれ」
「本当なの・・ごめんなさい・・・・ごめんなさい」
私は妻から離れると部屋を飛び出し、一人になると猛烈な悲しみに襲われましたが、事が大き過ぎるからか不思議と涙は出て来ません。
するといつの間にか、後ろに妻が立っていました。
「あなた・・・・・・・」
「相手は誰だ」
「それは・・・・・・・・・」
「相手は誰だ!」
「彼は今・・・・離婚調停をしていて・・・・・・・大事な時期だから」
悲しみは徐々に怒りへと変わって行きます。
「だから相手は誰だ!」
私は妻の頬を張っていました。
「言えません・・・ごめんなさい」
私はまた頬を張りましたが、あれだけ愛していた妻を力一杯張り倒す事は出来ずに、手加減を加えてしまいます。
「叩いて!あなたに叩かれても仕方ない事をしました。殺されても、文句も言えないような事を」
「それなら殺してやる!」
妻に馬乗りになると首を締めていましたが、力を入れたのは最初だけで、やはり妻を殺す事など出来ず、閉じた目から涙を流している妻を見ていると、妻の恋が真剣なのが分かって怒りは例えようの無い寂しさに変わっていきました。
私は妻の首から手を放すと、声を殺して泣いている妻の横に胡坐を掻いて座り込んでいました。
「いつからだ?」
妻もゆっくり起き上がり、叩かれた頬をそっと手で擦ります。
「去年の十月ぐらいから度々誘われるようになって、二人で食事に行ったりするようになったのは、十一月の終わりぐらいからです」
私は一番聞きたい事が怖くて聞けずに黙ってしまいましたが、その事を妻の方から話し出しました。
「彼とはもう・・・・・身体の関係も・・・・・・ごめんなさい・・・・・」
これは罪悪感から全て話そうと思ったのか、あるいはこの事を話して私に諦めてもらおうと考えたのかは分かりませんが、相手の素性を話さない事を考えれば、後者のような気がします。
「そのような関係になったのはいつからだ?」
「最初に関係を持ったのは・・・・バレンタインデー・・・・・・・」
それで妻は、春に帰った時に私を拒んだのです。
彼に私と関係をもつなと言われたのか、自分から彼に操をたてたのかは分かりませんが、どちらにしても好きな人のために私に抱かれる事を避けた。
つまりは浮気ではなくて、本気だという証拠です。
「離婚して下さい・・・・お願いします」
浮気なら私が離婚を宣言し、妻が泣いて許しを請うのでしょうが、本気の妻は自ら離婚を望んでいるので、私が妻を引き止められる方法は一つしかありません。
「子供達はどうする!当然子供達にも知れるぞ」
「正直に話します。子供達にも謝らなければならないので、私から話させて下さい。子供達はどうしても引き取らせて欲しいです。でも、こんな母親では軽蔑して、許してはくれないかな」
これで私には、妻を引きとめる方法が無くなってしまいました。
あとは泣いて縋る事しかありませんが、裏切られた上にそのような事はプライドが邪魔をして出来ません。
仮に離婚を拒否したとしても、心が戻ってこなければ同じ事です。
しかし,寝耳に水だった私がすぐに返事など出来る訳も無く、離婚については先延ばしにしましたが、妻も私に少しは誠意を見せようと思ったのか、通常の時間に帰って来ていました。
「俺が嫌いになったのか?」
「嫌いになんかなれない・・・今でもあなたが好き・・・・・でも・・・・彼の事を・・・・・・」
妻は私の事を嫌いではないが、私よりも彼を愛してしまったと言いたかったのでしょう。
私は消極的になっていて、このまま妻が彼と会わなければ忘れてくれるかも知れないと、情け無い望みを抱いていましたが、それも三日ともちません。
連絡も無く遅く帰って来た妻は、入ってくるなり私と目を合わさないように俯いて、小走りで寝室に行くと声を殺して泣いています。
「どうした?」
「付き合っている事を、あなたに打ち明けたと彼に話したら、約束も守れないのかと怒ってしまって」
「逆切れか。自分のやった事の責任もとろうとしない男に惚れたのか?」
「責任は取ると言っています」
「それならなぜ、堂々と俺の前に現れない!」
「今は自分達の離婚問題があって・・・・時期が悪いからと・・・・・・・」
「俺の人生を無茶苦茶にしておいて時期が悪い?逃げているだけで誠意も何も無い奴だな」
顔を合わせれば絶えず私に謝り続けていた妻でしたが、彼の事を悪く言われるのは堪えられないのか、明日も彼と会って私に謝罪するように説得すると、初めて強い口調で言いました。
しかし,翌日帰って来た妻は、もう少し待って欲しいと頭を下げます。
「不倫なんかする奴は、所詮その程度の男だ。お前も同類だから話さないし。こうなったら徹底的に調べて、そいつの人生も無茶苦茶にしてやる」
「待って。明日も会って、きちんと話をしに来てくれるように言いますから」
これでは娘の彼氏が結婚の許しをもらいに来るのを待っている、花嫁の父のようです。
今にも妻に捨てられようかとしている時に、少しでも妻に嫌われないように手加減を加えている情けない自分に気付き、それが更に最悪の事態に進ませているような気がして、私はようやく彼と対決する事を決めましたが、何処の誰か分からなくては動きようがありません。
「相手は誰だ!」
しかし,彼を庇っている妻は言う訳も無く、翌日私は興信所に飛び込み、
今日会う事が分かっているので早速相手の男の身辺調査を依頼しましたが、
その夜二人がホテルに入ったと連絡があり、
すぐにでも妻を問い詰めたい衝動に駆られたのを調査がし辛くなるので我慢してくれと言われて、
ようやく五日後に詳しい報告書が出来上がったと連絡が入ったので受け取りに行くと、
現実に妻が男に腰を抱かれてホテルに入っていく写真を見せられて、
猛烈な怒りが込み上げてきました。
何故なら相手はかなり年上の中年の親父で、五日前だけではなくて昨日もホテルに行っているのです。
「おまえの好きな彼は、いつまで逃げているつもりだ?」
「逃げている訳では・・・・・・」
妻を本気で愛していれば、ここまで来れば普通の男なら出て来ているでしょう。
しかし,甘い言葉を囁かれて自分を見失っている妻には、彼が明らかに逃げている事が分かりません。
「本当に話をしているのか?昨日は何処で話した?」
「何処って・・・・・・」
「ホテルで何の話が出切る!俺がこんなに苦しんでいるのに、おまえ達は会う度にホテルでお楽しみか!そんなに俺を苦しめて楽しいか!」
「ホテルだなんて・・・・・」
「違うなら、昨日は何処にいたのか言ってみろ!」
「ごめんなさい。今後の事を静かな場所で話そうと言われて。それよりも、どうしてその事を・・・・・・」
「木下部長」
「えっ!・・・・・・・・・」
報告書によると,相手は妻の上司で、
妻は昨年の春に配置転換があってから彼の片腕として働いていて、
二人だけで行動する事も多かった為に、
社内で二人の仲を噂する者もいて、
意外と簡単に調べがついたと調査員は言っていました。
「木下健吾、五十三歳。相手は十八も上のスケベ親父か?」
「彼は違うの。彼とは仕事上の付き合いだけで関係ないの」
私が証拠を持っている事を知らない妻は否定しましたが、上司を彼と呼ぶ事が全てを物語っています。
「関係無いだと!関係ないなら、明日会社に行って話しても構わないな?」
「私が悪いの。あなたへの責任は私がとります」
しかし私には、どうしても木下に責任を取らさなければならない事があります。
「会社が駄目なら、今すぐここに呼べ」
妻が電話を掛けると、木下は一時間後にやってきました。
彼は入って来るなり正座して頭を下げます。
「すみませんでした。人の道に外れた事をしました。でも私達は愛し合っています。出来る限りの償いはしますが、分かれる事だけは出来ません」
この男は妻の手前もあってか、その後も堂々と愛を語り、妻に対して誠実な男を演じ続けます。
そして,恋愛経験が乏しい妻は彼に愛されていると信じ切っていて、彼と並んで私に頭を下げていました。
「愛し合っている?愛していれば、何をしても許されるのか?お互いに妻や夫がある身だろ!」
「その通りです。申し訳ない事を致しました。ただ私の方はずっと離婚協議中で・・・・・」
「そうか。それなら明日にでも離婚しろ」
「そう簡単には・・・・・・・ですから・・・・妻と協議中で・・・・・・」
「協議などしなくても、全て奥さんの望む条件を飲んで離婚すればいいだろ。そのぐらいの覚悟も無しに、俺の人生を無茶苦茶にしたのか!」
「そういう・・・・物理的なものでは無くて・・・・・精神的な・・・」
「ごちゃごちゃ言っていないで、奥さんを連れて来い」
「妻は・・・・・・・・・」
「だから、すぐに離婚出来るように俺が頼んでやるから、奥さんを連れて来い」
ここまで来てしまえば、ばれてしまうのは時間の問題だと木下も分かっているはずです。
しかし,彼は、妻を引きとめるためには嘘も平気でつくのです。
「あなた、ごめんなさい。どのような償いでも・・私が・・・・・」
何も知らずに、妻は彼を庇い続けます。
「どのような償いでも?そうか。それなら先に、奥さんの所に行って謝って来い!早く離婚してくれと頭を下げて来い。何も知らない奥さんは驚くぞ」
「何も知らない?」
「おい木下!自分の家庭はそのままで、久美を愛人として囲う気か!」
「何の事か・・・・・・・妻が納得さえすれば・・すぐにでも別れて・・・・」
彼は時々妻の顔を横目で見ながら、あくまでも惚ける気のようでした。
私は彼の態度に怒りを覚えて掴み掛かりましたが、妻が私の足に縋り付いて邪魔をします。
「暴力はやめてー!」
「おまえはこの男と一緒になりたいのだろ!このままでは結婚なんて出来ないぞ!こいつは離婚なんてする気は無いし、ずっと夫婦仲も良いそうだ!」
「嘘よ!だって別居していて、何度か家にも行ったもの」
「こいつの家でも抱かれたのか!」
「それは・・・・・」
「こいつの家に行ったのは、いつの事だ!最近も行ったのか!」
「それは・・・・夏ぐらいに何回か・・・・・・・」
「子供達は独立しているし、確かに奥さんも家にはいなかった。病院にいたからな」
「病院?何を言っているの?もう何年も家庭内別居状態で、夏前に奥様は家を出られたのよ」
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「やっぱり私も行きたい」
「無理を言うなよ。子供達の学校はどうする?」
「お母さんに・・・・・・」
確かに妻の実家が近いので、共働きの私達は絶えず子供達を預かってもらっていました。
「それに久美も仕事があるだろ」
「分かっているの。無理な事は分かっている。でも・・・・・・」
「工場が軌道に乗ったら現地の人間に任せて帰って来られるから、長くても一年の辛抱だから」
「毎月帰って来てくれる?」
「無理を言うなよ。いくら近いと言っても国内じゃないのだぞ。お盆や正月以外にも、休暇をとって帰って来るようにするから、子供達の事は頼む」
それからの私達は新婚当時に戻ったかのように、毎日激しく交わって愛を確かめ合い、十日後には空港に向かっていました。
「遊びでも絶対に浮気しないでよ。一度でも浮気したら離婚だからね」
空港で別れる時にこのような事を言っていた妻が、まさか,このような事をしようとは思いもしませんでした。
妻とは高校の同級生で、付き合いを含めれば二十年近くも一緒にいる事になり、30代半ばになっていたにも関わらず休日はほとんど行動を共にし、出掛ける時は子供が一緒の時でも腕を組んでいたので、近所でもオシドリ夫婦で通っていました。
それが,勤めていた会社が中国進出を決めた事で、高校の時から三日以上逢わずにいた事のない私達が、離れ離れになってしまいます。
その上,いざ向こうに行ってみると,思ったように休みの取れる状態では無く、ゴールデンウイークにも帰国出来ずに、どうにか帰って来られたのは日本を旅立ってから四ヶ月も経ったお盆でした。
その時の私達は,赴任が決まった時のように毎晩交わり、赴任先に戻る前夜の妻は、終わった後も涙を流しながら抱き付いて来て離れません。
「寂しいの」
私もそのような妻が愛しく思えて抱き締めて眠りましたが、次に帰って来た時の妻に変化が起こります。
それは後で分かったことですが、その時の妻は私への愛を確かめようとしていたのです。
確かめると言うよりも、私から離れていく気持ちを、もう一度私にしっかりと繋ぎ止めてもらおうとしていたのかも知れません。
「私の事愛してる?私は好き。私はあなたを愛している」
妻は私に纏わり付き、絶えず愛を口にします。
夜になれば妻から毎晩迫ってきて、私の全身に舌を這わすなど、このような積極的な妻は今まで見た事がありません。
「あなたが好き。あなたが大好き」
それは自分に言い聞かせる言葉だったのですが、この時の私には分かりませんでした。
そして,次に帰国出来た翌年の春、妻は違った変化を見せます。
***
それは三日間だけの帰国で、金曜はその足で会社に行かなければならなかったので土曜は一日中妻と過ごし、日曜の午後には赴任先に戻る予定でしたが、前もって言ってあったにも関わらず、妻は土日が仕事になったと言います。
その時の妻はなぜか暗く沈んでいて、前回のように私に愛を囁く事も無く、事あるごとに謝り続けていました。
「ごめんなさい」
「何をそんなに謝っている?」
「ううん。折角帰って来てくれたのに、休日出勤になってしまったから」
それは夜も変わらず、なぜか妻は謝り続けていました。
「あなた、ごめんなさい」
「昼間から、ずっと謝ってばかりいるな」
「こんな時に生理が来てしまったから」
「仕方ないよ。抱き合って眠ればいいじゃない」
「そうだ。子供達も寂しがっていたから、今日は四人で寝ましょう」
強引に布団を運び込む妻に不自然さを感じながらも、トラブル続出で転勤が半年以上延びる事になった私は、妻に申し訳ないという気持ちが強くて何も言えません。
しかし,妻は、その年の夏季休暇も私と二人になると謝るばかりで、夜もまた生理を理由に拒み続け、流石の私もおかしいと思いながらも仕事は待ってはくれず、後ろ髪を引かれる思いで赴任先に戻りました。
そして,十月にようやく単身赴任も終わり、帰って来ると一番に妻を抱き締めましたが、妻は身体を硬くして涙まで流しています。
私はその涙を嬉し涙だと思ってしまい、疲れも忘れて早速妻を誘ってみると生理が来たと言って断わられ、一週間経つと今度は身体の不調を訴えて、妻と交わる事も無く十日が経ちました。
「今夜はいいだろ?」
私は我慢の限界を迎えていて、強引に押し倒すと妻は私との間に腕を差し込み、私を遠ざけようと胸を押して、涙を流しながらキスを拒みます。
「ごめんなさい・・・出来ないの・・・ごめんなさい」
「出来ない?どう言う意味だ!」
「彼が・・・・・・・」
私には妻の言っている意味が理解出来ませんでした。
「彼?」
「ごめんなさい・・・・・好きな人がいるの」
全ての物が崩れ去る音が聞こえ、怒りよりも悲しみが襲ってきます。
「こんな時に冗談はやめてくれ」
「本当なの・・ごめんなさい・・・・ごめんなさい」
私は妻から離れると部屋を飛び出し、一人になると猛烈な悲しみに襲われましたが、事が大き過ぎるからか不思議と涙は出て来ません。
するといつの間にか、後ろに妻が立っていました。
「あなた・・・・・・・」
「相手は誰だ」
「それは・・・・・・・・・」
「相手は誰だ!」
「彼は今・・・・離婚調停をしていて・・・・・・・大事な時期だから」
悲しみは徐々に怒りへと変わって行きます。
「だから相手は誰だ!」
私は妻の頬を張っていました。
「言えません・・・ごめんなさい」
私はまた頬を張りましたが、あれだけ愛していた妻を力一杯張り倒す事は出来ずに、手加減を加えてしまいます。
「叩いて!あなたに叩かれても仕方ない事をしました。殺されても、文句も言えないような事を」
「それなら殺してやる!」
妻に馬乗りになると首を締めていましたが、力を入れたのは最初だけで、やはり妻を殺す事など出来ず、閉じた目から涙を流している妻を見ていると、妻の恋が真剣なのが分かって怒りは例えようの無い寂しさに変わっていきました。
私は妻の首から手を放すと、声を殺して泣いている妻の横に胡坐を掻いて座り込んでいました。
「いつからだ?」
妻もゆっくり起き上がり、叩かれた頬をそっと手で擦ります。
「去年の十月ぐらいから度々誘われるようになって、二人で食事に行ったりするようになったのは、十一月の終わりぐらいからです」
私は一番聞きたい事が怖くて聞けずに黙ってしまいましたが、その事を妻の方から話し出しました。
「彼とはもう・・・・・身体の関係も・・・・・・ごめんなさい・・・・・」
これは罪悪感から全て話そうと思ったのか、あるいはこの事を話して私に諦めてもらおうと考えたのかは分かりませんが、相手の素性を話さない事を考えれば、後者のような気がします。
「そのような関係になったのはいつからだ?」
「最初に関係を持ったのは・・・・バレンタインデー・・・・・・・」
それで妻は、春に帰った時に私を拒んだのです。
彼に私と関係をもつなと言われたのか、自分から彼に操をたてたのかは分かりませんが、どちらにしても好きな人のために私に抱かれる事を避けた。
つまりは浮気ではなくて、本気だという証拠です。
「離婚して下さい・・・・お願いします」
浮気なら私が離婚を宣言し、妻が泣いて許しを請うのでしょうが、本気の妻は自ら離婚を望んでいるので、私が妻を引き止められる方法は一つしかありません。
「子供達はどうする!当然子供達にも知れるぞ」
「正直に話します。子供達にも謝らなければならないので、私から話させて下さい。子供達はどうしても引き取らせて欲しいです。でも、こんな母親では軽蔑して、許してはくれないかな」
これで私には、妻を引きとめる方法が無くなってしまいました。
あとは泣いて縋る事しかありませんが、裏切られた上にそのような事はプライドが邪魔をして出来ません。
仮に離婚を拒否したとしても、心が戻ってこなければ同じ事です。
しかし,寝耳に水だった私がすぐに返事など出来る訳も無く、離婚については先延ばしにしましたが、妻も私に少しは誠意を見せようと思ったのか、通常の時間に帰って来ていました。
「俺が嫌いになったのか?」
「嫌いになんかなれない・・・今でもあなたが好き・・・・・でも・・・・彼の事を・・・・・・」
妻は私の事を嫌いではないが、私よりも彼を愛してしまったと言いたかったのでしょう。
私は消極的になっていて、このまま妻が彼と会わなければ忘れてくれるかも知れないと、情け無い望みを抱いていましたが、それも三日ともちません。
連絡も無く遅く帰って来た妻は、入ってくるなり私と目を合わさないように俯いて、小走りで寝室に行くと声を殺して泣いています。
「どうした?」
「付き合っている事を、あなたに打ち明けたと彼に話したら、約束も守れないのかと怒ってしまって」
「逆切れか。自分のやった事の責任もとろうとしない男に惚れたのか?」
「責任は取ると言っています」
「それならなぜ、堂々と俺の前に現れない!」
「今は自分達の離婚問題があって・・・・時期が悪いからと・・・・・・・」
「俺の人生を無茶苦茶にしておいて時期が悪い?逃げているだけで誠意も何も無い奴だな」
顔を合わせれば絶えず私に謝り続けていた妻でしたが、彼の事を悪く言われるのは堪えられないのか、明日も彼と会って私に謝罪するように説得すると、初めて強い口調で言いました。
しかし,翌日帰って来た妻は、もう少し待って欲しいと頭を下げます。
「不倫なんかする奴は、所詮その程度の男だ。お前も同類だから話さないし。こうなったら徹底的に調べて、そいつの人生も無茶苦茶にしてやる」
「待って。明日も会って、きちんと話をしに来てくれるように言いますから」
これでは娘の彼氏が結婚の許しをもらいに来るのを待っている、花嫁の父のようです。
今にも妻に捨てられようかとしている時に、少しでも妻に嫌われないように手加減を加えている情けない自分に気付き、それが更に最悪の事態に進ませているような気がして、私はようやく彼と対決する事を決めましたが、何処の誰か分からなくては動きようがありません。
「相手は誰だ!」
しかし,彼を庇っている妻は言う訳も無く、翌日私は興信所に飛び込み、
今日会う事が分かっているので早速相手の男の身辺調査を依頼しましたが、
その夜二人がホテルに入ったと連絡があり、
すぐにでも妻を問い詰めたい衝動に駆られたのを調査がし辛くなるので我慢してくれと言われて、
ようやく五日後に詳しい報告書が出来上がったと連絡が入ったので受け取りに行くと、
現実に妻が男に腰を抱かれてホテルに入っていく写真を見せられて、
猛烈な怒りが込み上げてきました。
何故なら相手はかなり年上の中年の親父で、五日前だけではなくて昨日もホテルに行っているのです。
「おまえの好きな彼は、いつまで逃げているつもりだ?」
「逃げている訳では・・・・・・」
妻を本気で愛していれば、ここまで来れば普通の男なら出て来ているでしょう。
しかし,甘い言葉を囁かれて自分を見失っている妻には、彼が明らかに逃げている事が分かりません。
「本当に話をしているのか?昨日は何処で話した?」
「何処って・・・・・・」
「ホテルで何の話が出切る!俺がこんなに苦しんでいるのに、おまえ達は会う度にホテルでお楽しみか!そんなに俺を苦しめて楽しいか!」
「ホテルだなんて・・・・・」
「違うなら、昨日は何処にいたのか言ってみろ!」
「ごめんなさい。今後の事を静かな場所で話そうと言われて。それよりも、どうしてその事を・・・・・・」
「木下部長」
「えっ!・・・・・・・・・」
報告書によると,相手は妻の上司で、
妻は昨年の春に配置転換があってから彼の片腕として働いていて、
二人だけで行動する事も多かった為に、
社内で二人の仲を噂する者もいて、
意外と簡単に調べがついたと調査員は言っていました。
「木下健吾、五十三歳。相手は十八も上のスケベ親父か?」
「彼は違うの。彼とは仕事上の付き合いだけで関係ないの」
私が証拠を持っている事を知らない妻は否定しましたが、上司を彼と呼ぶ事が全てを物語っています。
「関係無いだと!関係ないなら、明日会社に行って話しても構わないな?」
「私が悪いの。あなたへの責任は私がとります」
しかし私には、どうしても木下に責任を取らさなければならない事があります。
「会社が駄目なら、今すぐここに呼べ」
妻が電話を掛けると、木下は一時間後にやってきました。
彼は入って来るなり正座して頭を下げます。
「すみませんでした。人の道に外れた事をしました。でも私達は愛し合っています。出来る限りの償いはしますが、分かれる事だけは出来ません」
この男は妻の手前もあってか、その後も堂々と愛を語り、妻に対して誠実な男を演じ続けます。
そして,恋愛経験が乏しい妻は彼に愛されていると信じ切っていて、彼と並んで私に頭を下げていました。
「愛し合っている?愛していれば、何をしても許されるのか?お互いに妻や夫がある身だろ!」
「その通りです。申し訳ない事を致しました。ただ私の方はずっと離婚協議中で・・・・・」
「そうか。それなら明日にでも離婚しろ」
「そう簡単には・・・・・・・ですから・・・・妻と協議中で・・・・・・」
「協議などしなくても、全て奥さんの望む条件を飲んで離婚すればいいだろ。そのぐらいの覚悟も無しに、俺の人生を無茶苦茶にしたのか!」
「そういう・・・・物理的なものでは無くて・・・・・精神的な・・・」
「ごちゃごちゃ言っていないで、奥さんを連れて来い」
「妻は・・・・・・・・・」
「だから、すぐに離婚出来るように俺が頼んでやるから、奥さんを連れて来い」
ここまで来てしまえば、ばれてしまうのは時間の問題だと木下も分かっているはずです。
しかし,彼は、妻を引きとめるためには嘘も平気でつくのです。
「あなた、ごめんなさい。どのような償いでも・・私が・・・・・」
何も知らずに、妻は彼を庇い続けます。
「どのような償いでも?そうか。それなら先に、奥さんの所に行って謝って来い!早く離婚してくれと頭を下げて来い。何も知らない奥さんは驚くぞ」
「何も知らない?」
「おい木下!自分の家庭はそのままで、久美を愛人として囲う気か!」
「何の事か・・・・・・・妻が納得さえすれば・・すぐにでも別れて・・・・」
彼は時々妻の顔を横目で見ながら、あくまでも惚ける気のようでした。
私は彼の態度に怒りを覚えて掴み掛かりましたが、妻が私の足に縋り付いて邪魔をします。
「暴力はやめてー!」
「おまえはこの男と一緒になりたいのだろ!このままでは結婚なんて出来ないぞ!こいつは離婚なんてする気は無いし、ずっと夫婦仲も良いそうだ!」
「嘘よ!だって別居していて、何度か家にも行ったもの」
「こいつの家でも抱かれたのか!」
「それは・・・・・」
「こいつの家に行ったのは、いつの事だ!最近も行ったのか!」
「それは・・・・夏ぐらいに何回か・・・・・・・」
「子供達は独立しているし、確かに奥さんも家にはいなかった。病院にいたからな」
「病院?何を言っているの?もう何年も家庭内別居状態で、夏前に奥様は家を出られたのよ」
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