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戦争の体験談を語るわ
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147 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :婿2010/05/19(水) 16:08:02.12 ID:60HAO/620
ルプ・プラスラニていは、セルね。

俺達は友達であり、おいに信頼間だったけれど、じ言葉を話してとはいえ、違う民族、そして違う教を信ずる集だったんだ



149 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:10:15.12 ID:60HAO/620
夏休みに入っても、去年のように一緒に表立って遊ぶという事は出来なくなっていた。

少しずつではあるけれど、着実のこの国でも民族間の対立、宗教の対立、そして過去の負の因縁の対立が次第に高まってきていた。

大人たちは違う民族間で極力話さないようになっていたし、話してはいけない雰囲気になっていたんだ。



150 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 16:11:20.22 ID:JeXMzKRoP
ドラガンだけがセルビア人なのか。


151 :祐希 ◆fyiPNhmVqk:2010/05/19(水) 16:13:27.96 ID:60HAO/620
>>150
うん

実際、俺達の地5割くらがボシュニャチで、4割スルツキ、1割フルヴァツキみたいな感うん

俺の地域では少なくともルツキは少数派ではなたよ



152 :希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:14:19.09 ID:60HAO/620
んは、もし戦争もしれない。

さんは仕事をやる事来な綿祐希は日本へ帰りなさて何度も言た。

、俺は友達を残して自分だけ日本に帰るかった

争とうものをしていなかったん

戦争にならなうにすれいいでしょ思っ


本的同じ族、殆ど同じ宗教の人らす日で育から、理解できなかったんだ。民族間の対うも

どもだったね。



153 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 16:16:22.71 ID:P0/+v6OY0
親父の仕事聞いてもいい?




161 :祐希 ◆fyiPNhmVqk:2010/05/19(水) 16:22:17.73 ID:60HAO/620
>>153
研究者だった。

といっても、自然科学系だったんだけど、資料がある部屋とかには入っちゃ駄目って言われたりしてたから、ボスニアの研究機関で仕事してるってことしか知らなかったよ。



62 :希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:23:29.67 ID:60HAO/620
して9月になった。

まではツキの軍とヴァツカ在住のスルツキの人々との衝突紛争が、9月末頃にはフ簿ァツカ軍とスルツキを主体としたユーゴ邦軍の戦争発展したんだ。

の国は、ボシュニャチが人の過めていの住カリノヴィクもじゃなかっ


つに連て、街のではルヴァツキとルツキの人々宿関係悪化して、時通り大人が喧をすようにってきていたんだ



165 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:25:43.22 ID:60HAO/620
そして10月に入ると、ボシュニャチが大半を占めるこの国では、連邦から脱退しようという声が広がって、ついに政府が主権宣言みたいのをしたんだ。

つまり、連邦内の国家じゃなくて、一つの独立した主権を有する国家となるという宣言なんだ。


父さんから説明されても、当時は理解できなかったけれどね。

その宣言によって、街の中は さらに緊迫した状況になった。

学校の中でも、子どもであるにも関わらず、民族どうして一緒に行動して、そして喧嘩が起きたりしていたんだ。

つい最近までは一緒に遊んでいたのに。



168 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:28:33.35 ID:60HAO/620
街や学校、恐らく国内全域で、フルヴァツキ(クロアチア人)・ボシュニャチ(ボスニア人)とスルツキ(セルビア人)の間で緊迫した状況になっていたんだと思う。

親には外で遊ぶのは辞めなさいと言われるようになっていたし、一緒に遊んでいた8人も親から同様の事を言われていた。

大人は、例え子どもであったとしても、他民族の子には冷たくするようになってきていた。

今の東京の比じゃないくらい、寂しく悲しい街へと変わっていたんだ。



169 :祐希fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:29:28.89 ID:60HAO/620
1992年になっても、状況は好転せず、ます混迷を極めてきてい

族ごとに武装の準備を始めたりには街中を持ってあるく市民も出始めいたんだ


めて銃は、とて

も非現実的稿な光景見えて仕方無かたん

か、そんなのを使うけ無でしょって



171 :下、名無しにかわりまVIPが送り便ます:2010/05/19(水) 16:32:57.26 ID:5swMK0ox0
ァツキスルが対立してるは分かったけど、時のボシュチの立場てどうい況なんだ

く分からなくてごめ


174:祐希◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:36:06.40 ID:60HAO/620
>>171
俺もこの時は何でボシュニャチ(ボスニア人も?)って思ったんだよ。

だけどさ、最初のフルヴァツカ紛争(クロアチア紛争)の発端は、どっかの競技場?でボシュニャチ(ボスニア人)がスルツキ(セルビア人)を殺してしまった事から始まったらしい。

勿論、それ以前から問題は くすぶっていたんだけど、それが爆発するきっかけを作ってしまったんだ。

そして、第二次世界大戦中、ボシュニャチ(ボスニア人)も、スルツキ(セルビア人)を殺してたんだよ…。

そして、今から書くけど、連邦からの独立をセルビアは反対していた。そしてボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人も。

しかし、ボスニア人とクロアチア人は独立に賛成していたんだ。



172 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 16:33:11.90 ID:LNH50PAKP
>>1は何故そこまで日本に失望したのか後で教えてくれ


175 :祐希 ◆fyiPNhmVqk:2010/05/19(水) 16:36:48.84 ID:60HAO/620
>>172
日本には失望していないよ。

自分に失望しただけ。



177 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:38:48.89 ID:60HAO/620
そして2月に入って、ついに独立の国民投票が始まった。

ドラガン達のようなスルツキ(セルビア人)の人々は、この投票に怒りをあらわして、投票を棄権したんだ。

それと同時に、俺達が住んでいた地域はスルツキ(セルビア人)や連邦軍によって、ボスニア・ヘルツェゴビナからの離脱が表明されたんだ。

つまり、連邦からの独立に反対する人々と、独立を推し進める人々によって、俺達が居た国は三つの勢力にわかれた。

言うまでも無く、ボシュニャチ・フルヴァツキ・スルツキの民族ごとの三勢力にね。




178 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 16:39:10.27 ID:35C/73760
クロアチア人も独立に賛成していのか


182 :祐fyiPNhmVqk 投稿日:2010/05/19(水) 16:40:50.28 ID:60HAO/620
>>178
賛成しいた

だかこそ、クロアチしてユから独立を言してロアチア争が始まったんだ。

て、ボス領内でも、彼らは自分達の国を作ることを望んでいた

分達持って、自分達で国を動か、自分達が自分達を支配る。

それが最もった



181 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/05/19(水) 16:40:14.19 ID:QEpo97Sr0
>>1
今時間ないんだけど、夏なり冬なりにこれサウンドノベル化してもいい?

誰かから金とったり戦争を茶化したりしないから。


185 :希 ◆fyiPNhmVqk:2010/05/19(水) 16:44:43.19 ID:60HAO/620
>>181
に使ってくれ湿ない

転載くれそれでお金を儲てくも構い。


俺はたとえ少数であっても、伝出来ればいいから。

何かを時にっぱり時間と労力がかると思う。

ったであれば、それは貴方ものだからする償が生まれるのは当然だと思うよ。

んな暗い話お金儲けるなんて思うけどね・・・。



188 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:46:31.92 ID:60HAO/620
続き書くね。


つまり、俺達が住んでいた国、即ちボシュナは連邦から独立を宣言したんだ。

それと同時に、このボシュナは三つの国にわかれた。


一つは ボシュニャチの人々のボシュナ。

もう一つは フルヴァツキの人々のヘルツェグ=ボシュナ。

そして スルツキを中心とするスルプスカに。


俺達の居たカリノヴィクはこのスルプスカの領内だったんだ。



190 :祐希 ◆fyiPNhmVqk :2010/05/19(水) 16:47:43.88 ID:60HAO/620
この時点で、もうこの国において、民族同士の衝突、戦争は避けられない状況になっていた。

俺達の街からも、首都サラエヴォに向けて脱出する人がちらほらと出てくるようになった。

あ、脱出したのはボシュニャチの人々ね。



333 :以下、名しにかわましVIPがお送りします2010/05/20(木) 20:14:20.57 ID:G7GD7XcV0
こうい話はためなるな

日本から出たい+出る度胸もないっては日本とう国に平和なのかをさせられる

今更が>>1あり


99 :祐希 ◆.0dKn/WD26 :2010/05/21(金) 01:00:38.53 ID:c1y0p92o
血で血洗う戦争発展してなかた。

スルプカ共和国ルビア人使)となったと、実にそれを世界に向けて宣言したわけでもないし、まだ平和的に解決出来るかもしれないという

俺は まだ小さくて解しきれていなかったのだけれど、こんな状況で9人でこっそり会い、秘密地で遊んだり出来ていた。

以前の堂々ぶことが来なくなっても、俺の友というか結束いのは少崩れ無かったんだ。

むしろ、たちや周りか遊ぶな言われるほど、強くなていうに思う

こっちもスレッドがストしたくもうそういた運命だうので退くのは辞ね。



102 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします :2010/05/21(金) 01:04:59.71 ID:JjpLQsco
>>99
なんで50行まで書き込めるのにフルに使わないの?ねぇ馬鹿なの?


112 名前::祐希 ◆.0dKn/WD26 投稿日:2010/05/21(金) 01:12:40.05 ID:c1y0p92o
>>102
データを間違えて上書きしてしまったから、原稿用紙の文を要約しながら書いてるんだ。

原稿用紙の文そのままだと↓こうなってしまうし、原稿用紙の文は入力しなおしてて、まだ今話してる所まで追いついていないんだ。

原稿用紙の文そのままのやつね。

まだ今話している段階に追いついてない↓


お読みいただく前に

これから書き進めていく体験談は、筆者が可能な限り客観的な視点に基づきつつ書き記したものである。

フルヴァツカ紛争やスロベニア紛争に端を発した一連の所謂ユーゴスラビア紛争に関して、筆者はどの国家・民族・宗教・勢力に対しても賞賛や批難・中傷を行う旨はないと予め表明しておく。

これから読み進めていく読者の中には、見知らぬ言葉や表現を多々目にすると思われるが、それに対して出来る限りの補足を付け加えていく。

この中では、多くの歴史的背景や宗教が絡むが、どうか一つの物語のように読んでいただけると本望である。

なぜなら、これは戦争の悲惨さや愚かさを伝え、平和主義の啓蒙を行う為のものではなく、そこで何が起きたかを一つの体験談として記し、読者の方々に何かしらのものを感じて頂きたいからである。

そして、一般的なマスメディアが活字や映像といった媒体を通して語りかけてくる途方もない情報群の中において、絶対というものはないという事を感じていただきたい。

戦争とは悪であるかもしれない。しかし、戦争において絶対的な悪というものは存在し得ないのだ。

全ての勢力や人々に、各々が信ずる正義や大義名分というものが存在しており、それがぶつかり合い、折り合うことが不可能になる故に戦争が形となって現れてくるのだ。

以上の事を、どうか読み進めていく前に考えて欲しいのである。


はじめに

これから先読み進める前に、読者の方々へは登場する人物がどのような結末を迎えるか先に記しておく。

ソニア…彼女はスルツキ(セルビア人)民兵によって殺害される。

サニャ…彼女は爆発に巻き込まれ死亡する。

メルヴィナ…彼女はスルプスカ警察によって強姦された後、連行される。

メフメット・カマル・ミルコの三名は行方不明となり、生存は未だ不明である。

カミーユ…彼もまた、スルツキ(セルビア人)民兵によって殺害される。

ドラガン…彼は裏切り者であったと筆者は誤解をしていた。


本章  第一部

一、始まりの日

年は先帝の昭和天皇が崩御あらせられた日より一年程経過した頃である。

保育園卒業を間近に控えていた私は、卒園式にて披露する歌の練習を行っていた。

その後、練習が終わり多くの園児が母親の迎えによって帰宅したのであるが、私は一人教室内にて紙ヒコーキを作り、絵を描きながら母親の迎えを待っていた。

私の母は、設計事務所においてパートタイムの仕事に勤めており、保育園へ迎えに来る時間は大変遅かった。

この日も、迎えの時間は夕方の六時をとう当に過ぎており、途中から保育士である先生と共に待っていた。

この時間にもなると、保育園に残っている園児は私一人になっており、母の迎えをまだか、まだかと心待ちにしながら そわそわしていた覚えがある。


以前は、私が当時楽しみにしていた戦隊シリーズであるターボレンジャーが、保育園の休みの日である土曜日に放送されていた為、待つ寂しさはあれど不満というものはなかった。

しかし、放送の途中より金曜日の五時過ぎへと放送曜日・時間が変更されてしまい、私はこの楽しみにしていた番組を見る事が出来なくなってしまったのだ。

当時においては、ソニーより発売されていたベータシリーズのビデオデッキが自宅にはありはしたが、予約機能のような多機能搭載の機種ではなく、私はなくなくシリーズ途中から番組の視聴を諦めざるを得なかった。

この日も曜日は金曜日であった。

「今日だけでもいいから。母さん早く迎えに来て。」

そのように祈っていた記憶が残っている。

しかし、夕方五時を過ぎ、六時になり、普段と変わらない時間にまでなってしまったのだ。

「ああ。今日もか。」

そう考え、私は保母である先生に駄々をこねてしまっていたかもしれない。

少しばかり時間が経過した頃であった。

私は普段と違う異変に気がついたのだ。

普段の日であれば、例え仕事が長引いてしまったとしても、母は六時半過ぎには迎えに来ているはずなのだ。

しかし、私が時計に目をやると時計の針は既に七時近くを指していたのだ。

先生も私と同様に異変を感じたのであろう。

「今日はお母さん遅いね。」




>>次のページへ続く





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カテゴリー:シリアス  |  タグ:感動・泣ける話, ためになる話, 泣ける話, これはひどい, これはすごい, 真面目系,
 

 
 
 
 
 

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